斎藤博 (アニメ監督)

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さいとう ひろし
斎藤 博
本名 斎藤 博
生年月日 (1936-03-17) 1936年3月17日
没年月日 (2015-06-26) 2015年6月26日(79歳没)
出生地 満洲国の旗 満洲国関東州大連市
国籍 日本
民族 日本人
職業 アニメーション監督、演出家アニメーター
ジャンル アニメ
活動期間 1961年 -
主な作品
巨人の星
天才バカボン
楽しいムーミン一家
あらいぐまラスカル』など
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斎藤 博(さいとう ひろし、1936年3月17日 - 2015年6月26日)は、日本のアニメーション監督、脚本家演出家京都市立紫野高等学校卒業。

経歴[編集]

中国(当時は満洲国)の日本租借地であった関東州大連市生まれ。太平洋戦争終戦後の1946年に日本へ引き揚げ、京都府に住む。

20代前半、油絵の勉強に専念し画家をめざすが、結婚後の1960年漫画家横山隆一 主宰するおとぎプロへ入社し、1961年放送開始のテレビアニメ『インスタント・ヒストリー』や劇場作品の作画を数本担当する。 1963年鉄腕アトム』の放映が開始されると、おとぎプロの先輩アニメーター1961年に設立された虫プロダクションの創設メンバー山本暎一の紹介で虫プロダクションへ入社。『鉄腕アトム』の作画を担当する。1966年、虫プロダクションを退社し、荒木伸吾と作画スタジオ ジャガードを設立する(「アニメについては、ジャガード時代に斎藤から多くを学んだ」と後に荒木伸吾は、感謝の弁を述べている)。『巨人の星』第2話「悪魔のギブス」で演出家としてデビューし、作画も担当する。1971年には、『巨人の星』の後番組『天才バカボン』の監督吉川惣司が降板したため、『天才バカボン』シリーズ監督となる。

1972年、ジャガードが倒産、遠藤政治と新スタジオ設立。1973年瑞鷹エンタープライズのアニメ制作部門として(のちに日本アニメーションに改組される)ズイヨー映像に参加。遠藤監督『山ねずみロッキーチャック』を監督補佐。1974年放映『アルプスの少女ハイジ』の絵コンテも担当している。1973年11月、虫プロダクションが倒産したため、『小さなバイキングビッケ』はズイヨー映像が制作することになり、チーフディレクターとなるが、『みつばちマーヤの冒険』を前監督の遠藤政治から監督を引き継ぎ、『小さなバイキングビッケ』の担当をはずれる。

1975年3月、日本アニメーションが設立され、ズイヨー映像の施設と多数のスタッフ・製作途中の作品を引継ぐことになり、『ピコリーノの冒険』を監督。1977年遠藤監督の『あらいぐまラスカル』の共同監督として就任するが、宮崎晃の脚本に影響を受け、監督と意見が合わず29話で降板する。高畑勲から、翌年放映予定の『ペリーヌ物語』の監督を代わって欲しいと依頼され、高畑からの推薦もあって監督に就任する。1979年にはスペシャルアニメ『まえがみ太郎』『トンデモネズミ大活躍』の演出や1980年トム・ソーヤーの冒険』の演出も担当する(脚本の宮崎晃が病気で入院したため、初期は脚本まで担当)。1982年南の虹のルーシー』を監督、1983年アルプス物語わたしのアンネット』の絵コンテを多数担当、1984年牧場の少女カトリ』を監督し大部分のコンテも担当。1986年放映『オズの魔法使い』の後半から、監督、脚本も担当する。 1989年放映のオランダとの合作アニメ『あひるのクワック』監督(宮崎晃脚本)。

1990年楽しいムーミン一家』を監督する。1992年に劇場公開された『ムーミン谷の彗星』も監督した。

作品歴[編集]

出典[編集]

  1. ^ あらいぐまラスカル”. 日本アニメーション. 2016年6月10日閲覧。
  2. ^ 小公子セディ”. 日本アニメーション. 2016年6月4日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]