斉藤浩史

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さいとう ひろし

斉藤 浩史
生誕 (1970-11-13) 1970年11月13日(53歳)
日本の旗 日本東京都
職業 株式会社協同 代表取締役社長
活動期間 2013年9月-
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斉藤 浩史
名前
カタカナ サイトウ ヒロシ
ラテン文字 Hiroshi SAITO
基本情報
身長 178cm
体重 69kg
選手情報
ポジション DF
ユース
読売クラブユース
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1989-1992 読売クラブ
1992 ブラジル キンゼ・ジ・ジャウー
1993-1994 清水エスパルス 16 (0)
1995 ブランメル仙台
1. 国内リーグ戦に限る。2023年11月18日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

斉藤 浩史(さいとう ひろし、1970年11月13日 - )は日本実業家、元サッカー選手。工業用部品メーカー・商社である株式会社協同代表取締役社長[1]。現役時代のポジションはディフェンダー

来歴[編集]

サッカー選手として[編集]

読売クラブユース出身。18歳でトップチームに昇格し、プロ契約を結んで日本サッカーリーグでプレー。大型ディフェンダーとして年代別の日本代表にも選ばれ[1]オリンピック代表候補として国際親善試合に出場した経験も有する[2]

Jリーグ発足前の1992年、本人の「Jリーグ開幕前にブラジルでプロとしてプレーしたい」という意向もあってブラジル・サンパウロ州選手権(1部リーグ)所属のキンゼ・ジ・ジャウーに移籍[2](日本のプロ契約選手として初めての正式な移籍手続きの事例[1])。そこでの試合中のプレーがエメルソン・レオンの目に留まり、翌年清水エスパルスに入団する。Jリーグ開幕戦ではベンチ入りも出場機会が無かったが、第2節のホーム開幕戦・広島戦では先発出場を果たす[3]。しかし、足の大けがもあって[2]、清水での出場は2年間で16試合に留まった。

1995年、当時旧JFLに所属していたブランメル仙台に移籍、1年間プレーして現役引退した[1][注釈 1]

実業家として[編集]

現役引退後、家業である協同ゴム工業株式会社(現・株式会社協同)に入社。台湾の事業を任される[2]。その後、タイの現地法人設立に携わるなど経験を積み、2013年9月に父・斉藤守弘の後を継いで代表取締役社長に就任する[4]

社長就任後は会社としてサッカー界との関わりを強め、2016年には日本障がい者サッカー連盟 (JIFF) のパートナー企業に就任[1]。2023年10月にはガバナンス上の問題が発覚していたJFL所属の鈴鹿ポイントゲッターズの運営会社である株式会社アンリミテッド[注釈 2]の支援企業として、同社の全株式を取得した[6]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし、株式会社協同公式サイトの記述によると、仙台退団後、再度ブラジルに渡り、キンゼ・ジ・ジャウーで1年あまりプレーしたと述べている[2]
  2. ^ 読売・清水時代を通じて斉藤と旧知の仲である三浦泰年[5] が監督を務めており、同年2月までは代表取締役GMを兼務していた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 元Jリーガーが障がい者サッカー支援に名乗り」『日刊スポーツ』、2016年10月5日。2023年11月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e 代表取締役 社長 斉藤 浩史”. 株式会社協同. 2023年11月18日閲覧。
  3. ^ ’93Jリーグサントリーシリーズ 第2節第1日 清水エスパルス 1-0 サンフレッチェ広島”. J.LEAGUE Data Site. 2023年11月18日閲覧。
  4. ^ 歴史と沿革”. 株式会社協同. 2023年11月18日閲覧。
  5. ^ JFL鈴鹿がオーナー変更 新オーナーは斉藤浩史氏」『スポーツニッポン』、2023年11月1日。2023年11月18日閲覧。
  6. ^ 鈴鹿ポイントゲッターズ運営会社、東京の商社が新株主に」『日本経済新聞』、2023年10月31日。2023年11月18日閲覧。

外部リンク[編集]