放棄試合

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放棄試合(ほうきじあい)とは、競技において何らかのトラブルが発生したために、事態の収拾が付かなくなったり、人数不足になったりした場合に、そのトラブルの元となったチームを敗戦扱いにする制度。試合放棄と呼ばれることもある。試合を行わずしての裁定では不戦敗となる。

放棄試合の場合の結果は、野球では0 - 9、サッカーでは0 - 3、バスケットボールでは0 - 20とされる。

野球における没収試合[編集]

公認野球規則では没収試合(ぼっしゅうじあい、Forfeited game)と言う。原則として個人記録はそのまま残るが、加害チームが勝利しながらも没収試合の対象で0 - 9の敗戦となった場合、勝利投手敗戦投手セーブの記録は取り消しとなる。

また、後攻チームがリードした状態で5回表、あるいは先攻チームがリードした状態で5回裏が完了する前に没収試合となった場合、その試合における選手達の成績は全て無効となり、記録されない(→ノーゲーム)。前述のとおり、没収試合となった場合は、得点0 - 9の試合として成立する。

公認野球規則上、没収試合となるのは以下のケース。

  • 球審が試合開始時刻にプレイを宣告してから、一方のチームが5分を経過してもなお競技場に出ないか、あるいは競技場に出ても試合を行うことを拒否した場合。
  • 一方のチームが試合を長引かせ、又は短くするために、明らかに策を用いた場合。
  • 球審が一時停止又は試合の打ち切りを宣告しないにもかかわらず、試合の続行を拒否した場合。
  • 一時停止された試合を再開するために、球審がプレイを宣告してから、1分以内に競技を再開しなかった場合。
  • 審判員が警告を発したにもかかわらず、故意に、また執拗に反則行為を繰り返した場合。
  • 審判員の命令で試合から除かれたプレーヤーを、そのチームが適宜な時間内に退場させなかった場合。
  • ダブルヘッダー第2試合の際、第1試合終了後20分以内に競技場に現れなかった場合(ただし、第1試合の球審が第2試合開始までの時間を延長した場合は除かれる)。(以上公認野球規則4・15)
  • ダブルヘッダーの第1試合と第2試合の間、又はグラウンドコンディション不良のために試合が停止されている間、グラウンドをプレイできる状態にするよう球審がグラウンドキーパー及びその助手に命じたにも拘らず、グラウンドキーパー及びその助手がこれに従わなかった場合(この場合はビジターチームの勝利となる)。(公認野球規則3・11)
  • 球審が試合を一時停止した後、その再開に必要な準備をグラウンドキーパーに命じたにもかかわらず、その命令が履行されなかったために試合再開に支障をきたした場合(この場合はビジターチームの勝利となる。ただし、アマチュア野球には適用されない)。(同4・16)
  • 一方のチームが競技場に9人のプレーヤーを位置させることができなくなるか、又はこれを拒否した場合。(同4・17)

試合を主管する組織が定める選手登録のルールに反した選手起用が原因となって没収試合が宣告されることがある。これは当該選手が試合に出場できないとのルールにより、公認野球規則4・15f項の「審判員の命令で試合から除かれたプレーヤーを、適宜な時間内に退場させなかった場合」に該当すると解釈しているためである。しかし、時には単純なメンバー登録の誤記が原因で放棄試合になった例もあり(#日本大学野球八戸工業大学青森中央学院大学戦、東北工業大学仙台大学戦など)、日本アマチュア野球規則委員会は、メンバー交換時に気付いた場合はその場で訂正を認めるなど、些細なミスでの放棄試合は避けるよう通達を出している[1]。第93回全国高等学校野球選手権広島大会での新庄高崇徳高戦では崇徳高の投手交代の不手際により規則を厳格に適用すれば放棄試合だったが、広島県高野連は教育的な意味合いもあり、投手交代を認めず試合を再開した[2]。  

日本プロ野球[編集]

  • 日本のプロ野球リーグにおいてはこれまで10試合のケースが該当する。太字は敗戦チーム。
開催日 適用された試合(会場) 適用理由
1946年5月20日  • パシフィック
 • セネタース
西宮球場
パシフィックの藤本定義監督が、戦前既存球団でプレーしていた白石勝巳(巨人)、藤井勇(阪神)を公式戦登録メンバーに加えさせたことでの調査中にも関わらず、2人を試合に出場させたため、パシフィックは当該4試合を没収試合(0-9での敗戦)とさせられた。このうち5月26日の試合はパシフィックが7-4で勝利していたが勝敗が逆転した。この1勝がグレートリングの初優勝につながった。
1946年5月23日  • パシフィック
 • グレートリング
(西宮球場)
1946年5月24日  • パシフィック
 • 阪急軍
(西宮球場)
1946年5月26日  • パシフィック
 • グレートリング
(西宮球場)
1946年9月27日  • セネタース
 • ゴールドスター
(西宮球場)
球場周辺が晴天にも関わらず、セネタースの宿舎付近が雨天だったので、試合中止と思い込んで選手団が球場入りしなかった為。
1947年6月6日  • 阪急ブレーブス
 • 南海ホークス
後楽園スタヂアム
球場周辺が晴天にも関わらず、阪急の宿舎付近が雨天だったので試合中止と思い込んで選手団が球場入りしなかった為。
1950年8月14日  • 南海ホークス
 • 大映スターズ
県営富山野球場
9回裏、無死二、三塁から大映の打者の打球を南海中堅手の黒田一博が捕球したが、二塁塁審は「ワンバウンドでの捕球である」として安打であると判定。これに対し山本一人監督をはじめ南海選手が「(黒田は)打球を直接捕球しているではないか」として抗議、40分後に主審が試合再開を促したにも拘らず、南海選手が守備に就くのを拒んだため、放棄試合が宣告される。
1954年7月25日  • 大阪タイガース
 • 中日ドラゴンズ
大阪球場[注 1]
5-2で中日が3点リードした延長10回裏無死、この回の阪神の攻撃で代打に起用された真田重男が、中日投手の杉下茂と相対し、カウント2-2からファウルチップした打球を中日捕手の河合保彦が落球したとして杉村正一郎球審はファウルと判定したが、中日側から「河合はファウルチップの打球を直接捕球したので三振になるはずだ」と抗議があった為、杉村球審は判定を覆して真田の三振アウトを宣告した[3]。これに対して阪神側が猛抗議し、その最中に藤村富美男が杉村球審に暴行を働いた(肩またはプロテクターを突いた)として退場を宣告された。この際に松木謙治郎監督も杉村球審に手を出して退場処分を受け[注 2]、興奮した観客がグラウンドに入って試合が1時間7分中断。阪神は連盟への提訴を条件に試合を再開したが、藤村には退場宣告がよく伝わっておらず、自らの打順で打席に立とうとした。この件について充分な説明がなされていないとの理由で観客の阪神ファンが再びグラウンドに乱入。収拾が付かなくなったことから主催者の阪神に責任があるとして審判団は没収試合により中日の勝利とした。この一件でセントラル野球連盟は試合管理不十分として松木監督に対し出場停止5日と制裁金3万円、藤村富美男に対しては「放棄試合の原因を招いた責任は重大」として出場停止20日と制裁金(罰金)5万円、松木退場後の監督代行を務めた金田正泰に「藤村の再出場を阻止できなかった」として戒告を科す処分を下した。またこの処分により藤村の連続試合出場記録は1,014試合でストップし、松木の体を張った苦労は報われなかった。
また、その当時の公式記録はその回の表・裏両方の攻撃が完了して初めて成立する制度(コールドゲーム参照)だった為、10回表の中日の攻撃で杉山悟駒田桂二から打った2点本塁打は無効となるおまけもついた。尚、この放棄試合の責任を取る形で阪神の松木謙治郎はシーズン終了後に監督を辞任した。大和球士は自著『プロ野球三国志』において、このトラブルを大阪球場の所在地にちなんで「難波事件」と命名している。
1967年9月23日  • 阪神タイガース
 • 大洋ホエールズ
甲子園球場
1回表の大洋の攻撃、二死満塁で打席に入った九番打者の森中千香良(当日の大洋の先発投手)が2ストライク後の投球を空振り。その球を阪神捕手の和田徹がショートバウンドで捕球し、三振バッターアウトが成立したと勘違いして当該打者へのタッチプレイ又は一塁への送球を行わず、両軍攻守交代と思い込んでそのボールをマウンドへ転がした。それを見た大洋ベンチが打者森中に「振り逃げが成立するからファーストへ走れ」と指示、また三塁走者の松原誠がホームインして大洋に追加点が入った。この間のプレーについて阪神監督の藤本定義が「打者アウトでスリーアウトチェンジではないか」と大谷泰司審判員に抗議し、その際胸を突き退場。その後阪神が試合の続行を拒否したため放棄試合となる。この試合はセ・リーグ最後の没収試合となっている。
1971年7月13日  • 阪急ブレーブス
 • ロッテオリオンズ
(西宮球場)
7回表のロッテの攻撃にて打者江藤愼一がカウント1ボール2ストライクからハーフスイングでバットを止め、一度は主審の砂川恵玄がボールと判定したが、阪急の捕手岡村浩二がスイングアウトをアピールした為、砂川は一転してストライクと判定し、その結果、江藤は三振凡退となった。その判定を巡り、三塁ベースコーチの矢頭高雄が「一度はボールとコールしたじゃないか」と抗議し、主審の砂川に暴行したため退場処分となる。またロッテベンチも監督の濃人渉ら首脳陣が抗議を続けるが受け入れられなかった。その後ロッテは試合続行を拒否したため(これにはオーナーの中村長芳が「こんな審判の下で試合は出来ないから止めよう」と言う鶴の一声もあった)、放棄試合が宣告された[4]
上の阪神-大洋戦の放棄試合を受けて1968年に放棄・没収試合は厳禁という規定ができたことと、この試合は阪急の主催試合であったため、ロッテ球団はNPBに制裁金200万円・阪急球団に賠償金300万円近く、合計約500万円のペナルティを支払うことになった。なお、この責任を取り濃人監督は二軍監督に降格しシーズン終了後にスカウトに異動、後任監督には入れ替わりに二軍監督だった大沢啓二が昇格し、翌シーズン5年契約を結んだが、成績不振により1年で退団した。事態の発端を作った江藤もシーズン終了後に大洋ホエールズにトレードされた。なお、この試合を最後に、パ・リーグでは40年、日本プロ野球では50年弱、没収試合は発生していない。

以上は一軍公式戦の例で、他にはウエスタンリーグで、1968年の中日ドラゴンズ-西鉄ライオンズ戦で審判の判定を不服として中日ドラゴンズが試合続行を拒否したものと、1980年の阪急ブレーブス-南海ホークス戦で審判の判定の遅れを不服として南海ホークスが試合続行を拒否した二例が記録されている。

日本社会人野球[編集]

クラブチームでは本職を持ちながらプレーする選手が多いことから、大会開催日に選手が9人集まらなかったり、また雨天順延等で本来土曜日や日曜日に組まれていたゲームが平日に繰り延べられた結果、選手が集まらずに試合放棄となるケースがまま見られる。そのほか社会人野球においてはプロ野球(独立リーグ、海外プロ含む)や学生野球、他チームからの移籍による登録規定があり、これに反することが発覚して没収試合となることがある。近年における登録違反の没収試合は次のとおり。

  • 2006年3月25日に行われた第41回福岡県野球連盟会長杯争奪春季大会1回戦、福岡美咲ブラッサムズ沖データ・コンピュータ教育学院戦の4回裏、福岡美咲ブラッサムズ側が競技者登録を行っていない元プロ野球選手・市場孝之を代打に送ったのを沖データ側が指摘、その時点で沖データは8-1でリードしていたが、規定により没収試合となり、沖データが9-0で勝利となった。
  • 2006年5月9日に行われた第60回JABA九州大会2回戦、セガサミー対沖データ・コンピュータ教育学院戦の8回表、沖データが未登録の選手を代打に送ったところ、セガサミー側の指摘により佐々木誠が気づいた。それまで2-0でセガサミーがリードしていたが、9-0でセガサミーの勝利となった。沖データ・コンピュータ教育学院は約1ヵ月半の間に没収試合の勝者と敗者になったことになる。
  • 2007年6月22日に行われた第32回全日本クラブ野球選手権大会東北地区2次予選2回戦、岩手21赤べこ野球軍団対郡山ベースボールクラブの試合は、4回終了時に14-0で岩手21赤べこ野球軍団が大量リードを奪っていたが、5回表に岩手21赤べこ野球軍団が未登録選手を代打に送り、郡山ベースボールクラブのアピールがあったことから、審判は没収試合を宣告し、郡山ベースボールクラブが9-0で勝利した。
  • 2011年5月21日に行われた第82回都市対抗野球大会滋賀1次予選1回戦、全大津野球団対瀬田クラブは一時11-0と全大津野球団が大量リードを奪ったが、全大津野球団が未登録選手を出場させて没収試合が宣告され、瀬田クラブが9-0で勝利。
  • 2013年4月6日に行われた第84回都市対抗野球大会奈良県1次予選1回戦、帝塚山大学OBクラブ対奈良フレンドベースボールクラブの試合は帝塚山大学OBクラブが4-3で勝利したが、試合後になって帝塚山大学OBクラブが前年に関西独立リーグに所属していたため1年間登録ができない選手を出場させていたことが発覚したため、当該試合を没収試合として9-0で奈良フレンドベースボールクラブの勝利とし、帝塚山大学OBクラブは同大会から除外された(敗者復活戦への出場も認めない)。

日本大学野球[編集]

選手の登録などによるミスで没収試合となることがまま見られる。学生主体の運営であることに原因があると言える場合が多い。

  • 2004年5月8日に行われた関西学生野球春季リーグの同志社大学関西大学1回戦で、関西大学が登録外選手を代打で出場させたため、連盟申し合わせ事項により没収試合となり、同志社大学の勝利となった。
  • 2006年9月7日に行われた京滋大学野球秋季リーグの京都学園大学花園大学3回戦で、京都学園大学は4-1で迎えた8回から、登録と異なる背番号の投手が登板したため、規定により没収試合となり、対戦成績2勝1敗とした花園大学が一度は勝ち点を得た。しかし、原因が京都学園大学のマネージャーのメンバー表への記入ミスだったことから連盟は再試合を決定。9月29日に行われた再試合では、京都学園大学が9回裏逆転サヨナラ勝利を挙げ、当初の結果とは逆に京都学園大学が勝ち点を得ることとなった。
  • 2006年10月9日に行われた北東北大学野球秋季リーグの1,2部入れ替え戦、八戸工業大学(1部)対青森中央学院大学(2部)の第2戦で、青森中央学院大学側がメンバー表に選手の名前を誤って記入し、当該選手が登板して1球投じたところで相手が抗議。規定により没収試合となった。入れ替え戦は2戦先勝方式で、前日行われた第1戦では青森中央学院大学が勝利していたが、没収試合となった第2戦の直後に行われた第3戦も八戸工業大学が勝利、対戦成績が青森中央学院大学の1勝2敗となり、1部昇格を逃す結果となってしまった。
  • 2006年10月22日に行われた九州大学野球選手権大会(明治神宮野球大会大学の部への出場を懸け、九州の3連盟上位チームにより行われる大会)の予選トーナメント決勝、九州共立大学日本文理大学戦で、九州共立大学の特別コーチ(元プロ野球選手)が試合中にベンチ及びブルペンで直接選手に指導していたとして、全九州大学野球協会がこの試合を没収試合にすると発表。試合は4-1で九州共立大学が勝っていたが、この措置により日本文理大学が決勝トーナメントに進出。大学野球においては、元プロ野球選手は条件つきで練習時に学生を指導することができるが、試合中の指導は認められていない。
  • 2007年9月2日に行われた仙台六大学野球連盟秋季リーグの東北工業大学仙台大学で、東北工業大学側がメンバー表に選手の背番号を誤って記載。その選手の背番号を変更するつもりが、以前の背番号を書いてしまったもので、旧背番号のユニフォームは大学に置いて来ていた。その選手は指名打者で、第1打席を完了するか相手の先発投手が交代するまで代打を送れないルールのため(指名打者の偵察選手を禁じた規定)、3番打者のその選手が打席に立った時点で没収試合となった。試合時間わずか13分で、仙台大の先発の投球数は10球。なお、指名打者の第1打席でも投手を代わりに打席に立たせることは可能(ただし、以降指名打者は使えなくなる)で、そうしていれば没収試合は免れたケースだった。
  • 2007年9月15日に行われた千葉県大学野球連盟2部秋季リーグの千葉商科大学千葉工業大学で、千葉商科大学がベンチ入り登録していない選手を起用し、千葉工業大学がこれをアピールしたことから審判団は没収試合を宣告、9-0で千葉工業大学の勝利となった。
  • 2011年9月25日に行われた京滋大学野球秋季リーグの京都教育大学対大谷大学2回戦で、京都教育大学の選手が登録と異なる背番号を付けて出場したため、規定により没収試合となり、対戦成績2勝とした大谷大学が一度は勝ち点を得た。しかし、「登録と違う背番号で出場した場合は没収試合とする」との規定はなかったことから連盟は再試合を決定。10月5日に行われた再試合では、大谷大学が勝利を挙げ、当初の結果通りに大谷大学が勝ち点を得ることとなった。
  • 2012年4月28日に河南中央公園野球場で行われた南東北大学野球連盟1部春季リーグ第3週第1日、日本大学工学部対福島大学1回戦で、9回裏2死一塁で福島大学がベンチ入り登録していない選手を代走として出場させたため没収試合となり、リーグ規定により9-0で日大工学部の勝利となった。
  • 2013年10月25日明治神宮野球大会東北地区代表決定戦1回戦の東北学院大学青森大学戦で、青森大学が6回表の攻撃でベンチ入り登録されていなかった選手を代打に起用したため没収試合となり、大会を主催した仙台六大学野球連盟の規定により9-0で東北学院大学の勝利となった[5]

日本高校野球[編集]

高校野球では全国大会では選抜選手権共放棄試合(没収試合)に至ったケースはないが、地方大会ではトラブルや選手の不足等により放棄・没収試合となることがまま見られる。

開催日 当該大会・回戦 適用された試合
(会場)
適用理由
1959年7月26日 選手権西中国大会
島根県予選準決勝
大田高校 - 大社高校
(大田市民球場)
前日に行われた同カードが日没再試合となり、大会本部は午後1時再試合開始としていたが前日判定トラブルがあったためか、大社高校側が
  1. 審判の交代
  2. 大田高校の監督を今後出場させない
  3. 主催者の謝罪要求

の3条件をつけたため紛糾。
4時間後の午後5時に試合開始を強行するが、3条件に拘る大社高校側が納得せず守備につかなかったため、大社高校に没収試合が宣せられた。

1969年7月25日 選手権
長野大会・本選1回戦
長野高校 - 丸子実高
(上田市営球場)
4-4のスコアで延長戦に突入。11回表二死一・二塁の場面で、長野高校の打者が三塁線を破る2点適時打を放ったが、丸子実高側はファウルを主張。スタンドから数人が乱入して、約20分間中断した。
結局判定は覆らず再開されたが、今度は丸子実高側が日没再試合狙いの遅延行為に出た。このため午後6時45分、丸子実高に没収試合が宣せられた。しかし、この処置に丸子実高側の観衆の一部が激昂し、スタンドに放火、球場設備を破壊するなどの暴動となったため、警官隊130人が出動。逮捕者2名を出して午後9時30分頃に収束するという不祥事に発展した。
丸子実高には佐伯達夫高野連会長(当時)によって2年間の対外試合停止処分が課される事となり(11ヶ月後に解除)、後援会は責任を取り解散した。
1997年 選手権
長野大会2回戦
蘇南 - 飯田 蘇南の選手が負傷退場。蘇南の選手が9人に満たなくなった為、没収試合が宣告され9-0で飯田の勝利となった。
2007年4月15日 春季・大阪府大会
Aゾーン予選1回戦
PL学園 - 住吉商業 4回途中までPL学園が45-0とリードしていたが、住吉商業の三塁手がゴロを処理する際に負傷しプレーが続行できなくなり住吉商業の選手が9人に満たなくなった為、没収試合が宣告され9-0でPL学園の勝利となった。
2007年4月30日 春季・大阪府大会
Dゾーン予選3回戦
飛翔館 - 桜宮高校 3回、飛翔館の投手が打球の直撃で心肺停止状態に陥り、AEDによる蘇生措置によって一命を取り留めるという事故があった(ACジャパンの広告にもなった事件)。この出来事にショックを受けた飛翔館側から放棄試合とすることが申し入れられ、0-9で桜宮高校の勝利となった。
2007年9月2日 秋季・長野県大会
北信地区予選1回戦
飯山南・飯山高校 - 坂城高校 4回表に坂城高校の一塁手が頭部に打球を受け負傷退場。坂城高校は出場選手が9名に満たなくなったため、試合続行が不可能となり、没収試合が宣告されて0-9で飯山南・飯山高校の勝利となった。
2007年9月9日 秋季・北海道函館支部大会
Bブロック予選1回戦
福島商業 - 知内高校 3回表に福島商業の選手が二塁へ盗塁を行った際に知内高校の二塁手と交錯し、脳震盪で負傷退場した。
福島商業は登録選手9名で出場していたため、試合続行が不可能となり、没収試合が宣告されて0-9で知内高校の勝利となった。
2008年4月15日 春季・埼玉県大会
北部地区予選1回戦
川本高校 - 進修館 2回裏一死までの時点で進修館が0-66と大量リードしていた。
しかし、川本高校の先発投手の投球数はこの時点で250球を超えたことから、選手の健康上の理由により川本高校の監督が試合放棄を申し出たため、没収試合が宣告されて0-9で進修館の勝利となった。
2011年7月9日 選手権
広島大会1回戦
広島工大高 - 井口
マツダスタジアム
猛暑の中、試合中に両校の選手が相次いで熱中症となり、負傷退場。延長13回裏終了時点で7-7の同点であったが、先に広島工大高の選手が9人に満たなくなったため没収試合が宣告され、0-9で井口の勝利となった[6]

メジャーリーグベースボール[編集]

  • メジャーリーグベースボールでは、19世紀から20世紀前半あたりまでかなりの数の放棄試合があったが、審判の権威が上がり、チャーター機などの移動手段の整備が進むことでその数は減っていった。
    • 1934年ワールドシリーズではセントルイス・カージナルスジョー・メドウィック三塁打を放った際に三塁へ激しく滑り込み、対戦相手のデトロイト・タイガースマーブ・オーエン三塁手を引っ掛けた。その後の左翼守備の時にタイガースのファンからゴミが投げつけられ、収集が付かなくなって試合が一時中断する騒ぎにまでなった。コミッショナーケネソー・ランディスがメドウィックを試合から欠場させなければ没収試合にすると通知。結局、メドウィックは退場した。
    • 1970年以降の没収試合は、集客のためのイベントが発端となって事態の収拾がつかなくなってしまったものが殆どで、1974年10セント・ビア・ナイトや、1979年ディスコ・デモリッション・ナイトはよく知られた出来事である。
    • 2013年現在、メジャーリーグでの最後の没収試合は、1995年8月10日のロサンゼルス・ドジャース対セントルイス・カージナルスである。この試合ではドジャースに不利な判定が続き、9回裏に最初の打者のラウル・モンデシーが見逃しの三振に倒れたとき、球審ジム・クイックのストライクの判定に激しく抗議したドジャースのトミー・ラソーダ監督、モンデシーらが退場処分となった。これに怒ったファンはグラウンドにボールを投げ込んだ。ちょうどこの日はメジャーリーグでよく見られる「ギブアウェイ・デイ(来場者全員または来場者のうち先着一定数の観客に球団グッズなどをプレゼントする日)」で、運悪くドジャースのロゴ入りボールが相当数の観客にプレゼントされていた。試合の続行が困難であるため、審判団はホームチームであるドジャース側にこの行為を止めさせるように要請したが、ドジャース側はこれを拒否し、ボールボーイもボールを拾わなかったため、審判団は公認野球規則4.16を適用して、没収試合を宣告した。この措置は全米で物議を醸した。このときのドジャースの先発は野茂英雄で、一塁塁審はボブ・デービッドソンであった。日本のマスコミではしばしば「ボブ・デービッドソンが没収試合を宣告した審判」と報道されることがあるが、没収試合を宣告できるのは球審の権限であり、宣告したのはジム・クイック球審である。
  • 1945年以降に没収されたのが以下の7試合である。
開催日 没収時の得点 適用理由
1949年8月21日  • フィリーズ2
 • ジャイアンツ4
シャイブ・パーク
9回表にジャイアンツ打者が放った中堅ライナーの捕球が認められずに二塁打になった。
これに怒ったフィリーズファンがフィールド内へ瓶を投げ込んだため。
1954年7月18日  • カージナルス1
 • フィリーズ8
ブッシュ・スタジアム
乱闘が行われた後にカージナルスが5回表に投手を3人も交替させる牛歩戦術を採ったため。
5回が終了していなかったために選手成績は公式記録に採用されず。
1971年9月30日  • セネタース7
 • ヤンキース5
RFKスタジアム
9回表2アウトで2点負けていたヤンキースがまさかの勝利。
セネタースは翌シーズンからテキサス州への本拠地移転が決まっており、セネタースファンがフィールド内に乱入したため。
1974年6月4日  • インディアンス5
 • レンジャーズ5
ミュニシパル・スタジアム
インディアンスは集客のために球場内で安価でビール販売を行った。
9回裏に1アウト満塁からインディアンスが犠牲フライで同点にした後、酔った観客がフィールド内に乱入したため。
1977年9月15日  • ブルージェイズ4
 • オリオールズ0
エキシビション・スタジアム
オリオールズのアール・ウィーバー監督が小雨のために敷かれた防水シートが守備時に危険だとして審判に撤去を要求。
要求は通らず、ウィーバー監督はオリオールズの選手をダグアウトへ引き揚げさせた。1914年以来の故意の没収試合となった。
1979年7月12日  • ホワイトソックス0
 • タイガース0
コミスキー・パーク
ダブルヘッダー第1試合の終了後にホワイトソックスの集客イベントで観衆が暴動を起こした。
第2試合は始められずに一旦延期されたが、アメリカンリーグ会長のリー・マクフェイルの裁定により、没収試合となった。
1995年8月10日  • ドジャース1
 • カージナルス2
ドジャー・スタジアム
9回裏の球審のストライク判定に激しく抗議したドジャースのトミー・ラソーダ監督、ラウル・モンデシーらが退場処分となった。
ドジャースファンがこれに抗議してフィールド内へボールを投げ込んだため。

韓国プロ野球[編集]

  • 以下の2試合である。
開催日 没収時の得点 適用理由
1982年8月26日  • 三星ライオンズ5
 • MBC青龍2
大邱市民運動場野球場
4回裏に併殺崩しの激しいスライディングを行った三星の一塁走者に対してMBCの二塁手が暴行を加えて退場処分。
MBCの選手がこれを不服として抗議し、25分後に没収試合が宣言。
1985年7月16日  • MBC青龍6
 • OBベアーズ5
蚕室総合運動場野球場
6回裏の一死一塁三塁からMBCが重盗を試みて三塁走者は本塁へ突入したが、OBの監督はスリーフットラインを離れたためにアウトだと主張。
監督はOBの選手全員をダグアウトへ引き揚げさせ、没収試合が宣言された。

国際試合[編集]

国際試合では国際野球連盟のルールが適用されるのが原則であり(例外はメジャーリーグ機構が主催したワールド・ベースボール・クラシックなど)、統一ルールで試合が行われるものの、大会に出場する選手登録で誤解が生じることがある。

2007年9月に行われた第30回ヨーロッパ野球選手権大会で、チェコチームが大会規定に反する選手登録を行っていたことが大会後に判明し、チェコが同大会予選リーグで勝った2つの試合はいずれも没収試合、0-9の敗戦となった。予選リーグでチェコは2勝3敗の4位だったために、別リーグ4位のイタリアと7位決定戦を行っており、チェコは8位となったが、大会後にチェコは最下位(12位)となり、9位以下のチームは自動的に1つずつ順位が繰り上がった。

サッカーにおける没収試合[編集]

大会規定により異なるものの、0-3とするものが多い[注 3](以下の事例を参照。また、既に獲得された得失点差の方が大きい場合は、それを有効とする)。また、個人記録は基本的に無効となる。さらに、競技場内における騒乱が原因の場合は試合の裁定とは別に無観客試合の処分が下されることが多い。

以下のケースが起こった場合、没収試合となることがある。

  • チームまたは選手が試合継続を拒否し、または試合を放棄する場合。
  • 試合中または試合終了後の、競技場内における騒乱。
  • チームによる著しい違反行為。
  • ドーピング違反行為。
  • ピッチ上の出場選手が規定人数以下の場合(FIFAによれば6人以下としているが、協会、連盟などによって規定人数は異なる。日本協会は7人以下)。
  • 参加資格のない選手を出場させた場合(出場停止中など)。

事例[編集]

バスケットボールにおける没収試合[編集]

  • 1994年3月6日に熊本県で行われた、日本リーグ三菱電機vs熊谷組戦。三菱がユニフォームの色を間違えたため没収試合(20-0で熊谷組の勝ち)となった。
  • 2000年3月12日に横浜文化体育館で行われた、日本リーグプレーオフファーストラウンドの三菱電機ドルフィンズvsトヨタ自動車アルバルク第2戦。試合開始7分で三菱のトム・クラインシュミットとトヨタのハワード・ライトが掴み合いの喧嘩により退場。この際、ベンチにいた三菱8人全員とトヨタ2人もベンチを離れたとして退場処分。そのため三菱はコート上の4人しかいなくなり没収試合(20-0でトヨタの勝ち)となった。
  • 2005年12月18日輪島市一本松体育館で行われた、日本リーグ第6戦の石川ブルースパークスvs豊田通商ファイティングイーグルス戦。石川優勢で試合が進んでいたが、豊田通商側は試合を通じて「判定が石川寄りだ」と審判に抗議していた。96-70で迎えた第4クオーター残り2分46秒で、豊田通商は選手及びコーチ全員が抗議退場したため、没収試合扱い(20-0で石川の勝ち)となった。

アイスホッケーにおける没収試合[編集]

  • 2006年12月3日に神戸市立ポートアイランドスポーツセンターで行われた、アジアリーグ日光神戸アイスバックス vs 長春富奥第4回戦。第2ピリオドに乱闘が起こり両チームあわせて13人の退場者を出すこととなった。しかし長春側がこの判定を不服とし選手及びスタッフ全員が試合会場を後にしたため、没収試合扱い(0-0で日光神戸の勝ち。個人記録は無効)となった。
    • その後、乱闘の当事者である13人に1~2試合の出場停止処分が課せられた。
  • 2009年12月10日栃木県立日光霧降アイスアリーナで行われた、アジアリーグH.C. TOCHIGI 日光アイスバックス vsHigh1アイスホッケーチーム第4回戦。第2ピリオド12分24秒に日光、鈴木貴人のゴールに対し、ゴールジャッジはゴールの判定をしたが、主審CHOI,Yoon-YoungとYAMAGUCHI,Sotaro2氏とも、ゴールジャッジのランプに気がつかず試合続行、日光側の抗議によりゴール認定されスコア2-0になったが、それを不服としたHigh1側が猛抗議の末にロッカールームから出てこなくなり、没収試合宣告(0-0で日光の勝ち。個人記録は無効)となった。
    • その後、暫定的にHigh1監督キム・ヒウが2試合のベンチ入り禁止処分を受け、最終的には5試合のベンチ入り禁止処分なっている。

バレーボールにおける没収試合[編集]

  • 2003年12月12日に行われた、全日本バレーボール大学男女選手権大会男子準々決勝日本体育大学 vs 亜細亜大学。日本体育大学が3-2で勝利したが、組み合わせ抽選での不正が発覚したため、この試合は没収試合とされ、亜細亜大学が準決勝に進んだ。その後日本体育大学には男子6人制において1年間の対外試合禁止処分が下され、総監督の森田淳悟は関東大学連盟の役職辞任に至った。
  • 2009年8月22日に行われた、国体少年女子の部関東ブロック大会代表決定戦東京 vs 茨城。東京が2-0で勝利した試合であったが、東京が参加資格のない選手を出場させていたことが発覚したため没収試合(2-0で茨城の勝ち)となった。この結果、東京に代わり茨城が国体本大会出場権を得た。
  • 2009年11月28日チャレンジリーグ女子開幕戦の、KUROBEアクアフェアリーズ vs 大野石油広島オイラーズ(柏市中央体育館)は、大野石油の一部選手が新型インフルエンザに感染し人数が揃わないため、KUROBEの不戦勝(3-0没収試合扱い)となった。
  • 2012年1月7日のチャレンジリーグ男子、トヨタ自動車サンホークス vs 東京ヴェルディ(大阪府東大阪市・近畿大学記念会館)は、東京ヴェルディが試合開始時間を勘違いし試合開始までに会場に現れなかったため没収試合となり、トヨタ自動車サンホークスの勝利(3-0)となった。

大相撲における没収試合[編集]

格闘技における没収試合[編集]

脚注[編集]

  1. ^ この当時、大阪タイガースの本拠地球場である阪神甲子園球場には夜間照明設備が備えられていなかった為、大阪球場でのナイトゲームとして行われた。
  2. ^ これは自らが矢面に立って連続試合出場を続けていた藤村へのペナルティを回避するためだった。
  3. ^ 異なる得点を定める大会もあり、例えば2012年の北海道サッカーリーグでは0-5としている[7]

出典[編集]

関連項目[編集]

出典・外部リンク[編集]