掃部山公園

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掃部山公園
Kamon-yama Park.JPG
井伊直弼像とランドマークタワー
所在地
神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘57
北緯35度27分11秒
東経139度37分32秒
分類 都市公園
面積 24,727 m2
設備・遊具 幼児・児童用遊具、井伊直弼像、能楽堂
駐車場 なし
バリアフリー 身障者対応トイレ
告示 1914年
夜桜と井伊直弼像

掃部山公園(かもんやまこうえん)は、神奈川県横浜市西区にある公園。横浜みなとみらい21を見下ろす高台にあり、園内には横浜開港に関わった井伊直弼の銅像が立つ。桜の名所としても有名である。

概要[編集]

江戸時代までは海に面した高台で、不動山と呼ばれていた。

明治初期、新橋駅-横浜駅(現・桜木町駅)間の鉄道開通に携わったエドモンド・モレルなど外国人鉄道技師の官舎が建てられ、開通後も鉄道用地として利用していたことから、鉄道山と呼ばれた。

1884年(明治17年)に旧彦根藩士が買い取って井伊家の所有となり、1909年(明治42年)横浜開港50年記念に井伊直弼の銅像が建立された。除幕式には、井伊を開国の恩人とした銅像の建立趣意書に反発し、山縣有朋伊藤博文松方正義井上馨は欠席した。 以後、直弼の官位である掃部頭(かもんのかみ)から、掃部山と呼ぶようになった。

1914年大正3年)井伊家より横浜市へ寄付され、掃部山公園として整備された。 第二次世界大戦中には政府の金属回収指示によって銅像は取り払われたが、1954年昭和29年)に開国100周年を記念して横浜市が再建している。

園内には約200本の桜が植えられ、1996年平成8年)には公園の一角に横浜能楽堂が建設された。

井伊直弼像(台座)[編集]

園内に立っている井伊直弼像は1909年(明治42年)6月26日に竣工した。元々は記念碑を建立する計画が1881年(明治14年)に発起されたが、1903年(明治36年)にいたって銅像建立に変更された。竣工と同年の7月11日午後2時半より除幕式が行われた。高さは一丈二尺(3m60cm)で、「正四位上左近衛権中将」の正装をしている[1]。原型作者は工学士の藤田文蔵、鋳造者は岡崎雪聲[2]。台石は工学博士の妻木頼黄の設計で高さ二丈二尺(6m60cm)。

1923年関東大震災では倒壊を免れたものの、振動で南に25度向きを変えた。銅像部分は、1943年(昭和18年)に金属回収によって撤去されたが、戦後の1954年(昭和29年)に再建された[3]。1954年(昭和29年)が横浜開港100周年に当たることから、記念行事の一環として銅像を再興する動きがあり、神奈川県横浜市・商工会、さらに市民の協賛を得て計画が実行に移された。前年の12月、実行委員会は保土ヶ谷区天王町在住の彫刻家慶寺丹長父子[4]に銅像再鋳を依頼、基礎となる模型を東京の井伊家菩提寺である豪徳寺井伊直弼の彫刻を先の銅像の原寸大に拡大して、可能な限り元の彫刻と合致するものになるように苦心した。新しい銅像は、1954年(昭和29年)5月20日完成し、据え付けられた[5]

台座部分は、2012年(平成24年)3月28日に横浜市認定歴史的建造物に認定された[6]

所在地・交通[編集]

神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘57

周辺[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ 西区の今昔・編集委員会(編)『ものがたり西区の今昔』(1973年(昭和48年)7月2日発行、西区観光協会)123ページ
  2. ^ 横浜市(編)『横浜復興誌 第三編』(1932年(昭和7年)3月31日発行、横浜市)133ページ
  3. ^ 西区の今昔・編集委員会(編)『ものがたり西区の今昔』(1973年(昭和48年)7月2日発行、西区観光協会)124ページ
  4. ^ 横浜郷土研究会(編)『横浜歴史散歩』(1976年(昭和51年)7月8日発行。1977年(昭和52年)11月改訂)71ページ
  5. ^ 田村泰治『横浜掃部山公園 井伊直弼銅像建立をめぐる紛争と事件の顛末』(神奈川県立図書館『郷土神奈川』第四七号、2009年(平成21年)2月28日発行抜刷)12〜13ページ
  6. ^ http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/design/press/20120328/

外部リンク[編集]