戒規

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戒規(かいき、英語:Church discipline)とは、誤った教理、罪の行い、に対して行使される、キリスト教会の教育、訓練の極端な形である。教会戒規には、訓戒、陪餐停止、除名の3段階がある[1]

戒規は教会において、異端の誤った教理の侵入を防ぐため、また罪に陥った者を懲戒するため、あるいは回復へと導くために行使される。必ずしも公になされるものではなく、マタイ伝18章15節以下にみられるような個人的な訓戒も戒規である。

プロテスタント宗教改革者は、みことばの説教礼典の執行、と並んで、戒規を真の制度的教会のしるしの一つと考えた[1]。これは、スコットランド信条において明白に告白されている[2]

教会戒規の聖書箇所は複数ある(マタイ18:15-17、第一コリント教会への手紙5:1-6、9-13、第一テモテ5:18-20、テトス3:10)。

聖句[編集]

「もし汝の兄弟罪を犯さば、往きてただ彼とのみ相對して諫めよ。もし聽かば其の兄弟を得たるなり。もし聽かずば、一人・二人を伴ひ往け、これ二三の證人の口に由りて、凡ての事の慥められん爲なり。もし彼等にも聽かずば、教會に告げよ。もし教會にも聽かずば、之を異邦人または取税人のごとき者とすべし」

— マタイ 18:15-17、文語訳聖書

「現に聞く所によれば、汝らの中に淫行ありと、而してその淫行は異邦人の中にもなき程にして、或人その父の妻を有てりと云ふ。斯くてもなほ汝ら誇ることをなし、かかる行爲をなしし者の除かれんことを願ひて悲しまざるか。われ身は汝らを離れ居れども、心は偕に在りて其處に居るごとく、かかる事を行ひし者を既に審きたり。すなはち汝ら及び我が靈の、我らの主イエスの能力をもて偕に集らんとき、主イエスの名によりて、斯くのごとき者をサタンに付さんとす、是その肉は亡されて、其の靈は主イエスの日に救はれん爲なり。汝らの誇は善からず。少しのパン種の、粉の團塊をみな膨れしむるを知らぬか。」

— 第一コリント 5:1-6、文語訳聖書

「われ前の書にて淫行の者と交るなと書き贈りしは、此の世の淫行の者、または貪欲のもの、奪ふ者、または偶像を拜む者と更に交るなと言ふにあらず(もし然せば世を離れざるを得ず)ただ兄弟と稱ふる者の中に、或は淫行のもの、或は貪欲のもの、或は偶像を拜む者、あるひは罵るもの、或は酒に醉ふもの、或は奪ふ者あらば、斯かる人と交ることなく、共に食する事だにすなとの意なり。外の者を審くことは我の干る所ならんや、汝らの審くは、ただ内の者ならずや。外にある者は神これを審き給ふ。かの惡しき者を汝らの中より退けよ。」

— 第一コリント 5:9-13、文語訳聖書

「聖書に『穀物を碾す牛に口籠を繋くべからず』また『勞動人のその價を得るは相應しきなり』と云へばなり。長老に對する訴訟は二三人の證人なくば受くべからず。罪を犯せる者をば衆の前にて責めよ、これ他の人をも懼れしめんためなり。」

— 第一テモテ5:18-20、文語訳聖書

「異端の者をば一度もしくは二度、訓戒して後これを棄てよ。」

— テトス3:10、文語訳聖書

脚注[編集]

  1. ^ a b 尾山令仁『聖書の教理』
  2. ^ ヤン・ロールス『改革教会信仰告白の神学』一麦出版社

参考[編集]