成城中学校・高等学校

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成城中学校・高等学校
Seijo highschool.jpg
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人成城学校
設立年月日 1885年1月15日
共学・別学 男女別学(男子校)
中高一貫教育 併設型
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 3学期制
高校コード 13543H
所在地 162-8670
東京都新宿区原町三丁目87番地
外部リンク 公式サイト
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成城中学校・高等学校(せいじょうちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都新宿区原町三丁目にある私立中学校高等学校

目次

[編集] 概要

「日本体育会発祥之地」碑 2009/6/11撮影

1885年明治18年)創立の伝統校。日高藤吉郎、河村隆実といった旧士族らが皇室の恩恵を受け創立。戦前は陸軍士官学校陸軍幼年学校への全寮制予備校として、全国から集う陸軍軍人志望者に予備教育を施し、数多くの高級軍人を輩出した。学校創立時の届出書には「本校ハ陸軍武学生徒入学ノ予備学科ヲ教授スル所トス」と記されている。当初は成城学校と称していたが、後に成城中学校(旧制中学)と改称した。

日本の学校で初めて臨海学校林間学校を開設し、現在も毎年中学にて実施されている。陸軍と縁が深いこともあり、現役の陸軍将校が教員として配置され教鞭をとることもあった。戦前は留学生の受入れにも積極的で、清国や朝鮮などからの留学生を多数受け入れ、その卒業生の多くは帰国後、時の指導者として活躍した。

土のグラウンドを有するほか、3万冊以上の蔵書を抱える図書館、50台のコンピューターを備えたマルチメディア教室、柔道場、剣道場、テニスコート、温水プールなどを完備している。現在の敷地は、江戸時代は水野忠邦の屋敷であったが、明治期に後の校長を務めた日露戦争の英雄、陸軍大将児玉源太郎らの尽力により宮内省から下賜されたものである。

「成城」という名は、詩経大雅篇にある、「哲夫成城」に由来する。「哲夫」とは智徳のすぐれた男子のことであり、哲士、哲彦ともいう。 成城の城は国を指し、国を成すの意。すなわち、知達の士は国家を興隆させる者であることをいったもの。校章の三光星は「知・仁・勇」を表す。

世田谷区の成城学園は、戦前に本校より分離独立した学校法人である(下記参照)。9代校長の澤柳政太郎が成城学校内に付設した成城小学校が成城学園の起源。これが現在の世田谷区に移転し、後に成城学園として分離独立した。従って、成城学園は創立時には成城学校を母体としていたが、分離独立後は別個の学校である(成城大学は成城学園の大学であり、成城高校は成城大学の附属高校ではない)。なお、大阪府立成城高等学校とは関連が無い。

日本体育会とは創立者(日高藤吉郎)を同じくしており、学校間の関係はないものの、日高が死去した際は合同葬儀を実施した。校舎敷地内には「日本体育会発祥之地」なる記念碑が建立されている。

[編集] 沿革

  • 1885年1月15日 - 文武講習館として中央区築地に創立され、軍人志望の少年の養成にあたる。
  • 1886年8月 - 成城学校と改称し、幼年科、青年科を設置。陸軍士官学校陸軍幼年学校への予備教育を施す。
  • 1891年8月 - 創立者日高藤吉郎が成城学校敷地内に体育会(後の日本体育会)を設立する。
  • 1891年9月 - 宮内省(のちの宮内庁)より現在の牛込原町の校地を下賜され、移転する。
  • 1917年1月 - 私立成城中学校と改称。
  • 1918年7月 - 日本で初めての林間学校を長野県中房温泉で開設した。
  • 1922年4月 - 成城第二中学校併設。
  • 1925年7月 - 日本で初めての臨海学校を神奈川県逗子市初声村に開設した。
  • 1929年4月 - 第二中学校は世田谷区に移転し、成城学園となる。
  • 1948年4月 - 成城中学校・高等学校と改称した。
  • 1955年4月 - 牛込成城幼稚園を併設した。
  • 1986年1月 - 創立100年を迎える。
  • 2010年1月 - 創立125年を迎える。

[編集] 歴代校長

[編集] 行事

[編集] 交通

[編集] 部活動

運動部
文化部
同好会


[編集] 著名な出身者

[編集] 皇族

[編集] 陸軍

[編集] 海軍

[編集] 清国からの留学生

[編集] スポーツ

[編集] 芸能

[編集] 放送・マスコミ

[編集] 芸術

[編集] 学術

  • 堀口亘(法学者 一橋大学名誉教授)

[編集] その他

[編集] 成城学園との関係

(以下の記述は、校史『成城学校百年』に基づく)

  • 1916年、澤柳政太郎が、成城学校の9代校長に就任したが、その就任の条件として、小学校を付設させることを挙げた。その翌年の1917年、成城学校内に、成城小学校が新たに付設され、新教育の実験校となった。
  • 以来、親たちより、旧制中学校以降も小学校と同様の教育をして欲しいという熱心な希望があり、1923年、成城小学校の卒業生が進学する、成城第二中学校が開校した。
  • さらにその卒業生の進学先となる旧制高等学校の問題が出てきた。また、将来の生徒増を考えると、教室、敷地も狭くなるため、東京府郊外へ新校地を求めていた。そして、関東大震災を契機に、府下北多摩郡砧村喜多見(現世田谷区成城)で、それが実現することとなった。
  • 1925年、成城第二中学校が移転し、これに伴い、成城玉川小学校が併設された。1926年、7年制の成城高等学校が創設開校され、成城第二中学校は法規上自然廃校となり、高等学校の尋常科として、包括された。
  • 1929年、砧村の成城小学校、成城第二中学校は、正式に成城学校の財団とは分離独立している。

[編集] 成城学校入学事件(振武学校との関係)

戦前は軍事を学ぶ目的の清国、朝鮮からの留学生受入れを積極的に行い、上記卒業生のほか数多くの留学生受入れを行った。魯迅も本校に留学予定であったが、清国公使の推薦状が得られなかったため入学を見合わせた。また、これと同時期の1903年、本校の在籍留学生全てが後に参謀本部が設立した東京振武学校(現、東京女子医大敷地内)への転校処置がとられ、以後の留学生は全て振武学校にて軍人教育を受けることとなった。振武学校設立後は蒋介石などが入学している。一連の事態は「成城学校入学事件」として扱われている。

[編集] その他

  • 図書館には、約32000冊の本を所蔵している[1]
  • 臨海学校用に、四艘の和船を所有している[要出典]

[編集] 関連項目

[編集] 出典

  1. ^ http://www.seijogakko.ed.jp/seijo_panf.pdf デジタルパンフレットP.8

[編集] 外部リンク

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