成均館

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成均館
명륜당 Lecture Hall (1).jpg
各種表記
ハングル 성균관
漢字 成均館
発音 ソンギュングァン
日本語読み: せいきんかん
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成均館(ソンギュングァン)は高麗の末期と朝鮮時代の最高教育機関。以前の最高教育機関である国子監の名称を1298年に「成均監」、ついで1308年に「成均館」と変えたことで始まった。恭愍王の時に国子監の名称に復したが、1362年に再び成均館に戻った[1]。正三品衙門。

朝鮮時代には、成均館は、漢陽の崇教坊(現在のソウル特別市鍾路区明倫洞)と開城(高麗首都)に存在した。文廟(孔子と碩学の祠堂)、明倫堂(講義室)、東西斎()、尊経閣(図書館)で構成されたが、文禄・慶長の役の時に消失して再建された。1887年には経学院に改称するが、1894年に廃止される。また成均館大学校は成均館を前身としている[2]

学内[編集]

成均館の学生は齋生と呼ばれた。とくに生員進士試を合格した者は、上齋生と呼ばれ、選抜試験の升補や蔭敍によって合格した者を下齋生と呼んだ。

定員は初期には150人だったが、1429年から200人に増やされた。だが末期には100人に減らされた。科挙(小科)に合格すると入学することができた(定員に達していない時には追加試験で充員した)。成績優者は、大科の一次試験(初試)が免除された。齋生たちは寮生活をしながら国家から贍學田(섬학전)と外居奴婢(외거노비)を受け、学費などは養賢庫が支給した。また、成均館では原点制(원점제)があり、これはちゃんとした生活をしているかで点数をつける制度で、朝食と夕食を食べると1点で、300点とれば大科に応ずることができた。

また齋生が行う自治会議を齋会(재회)と呼び、掌議(장의)、色掌(색장)、曹司(조사)、堂長(당장)などの役員を置き、成均館の諸問題を議論した。また、寮運営の面では、東齋(동재)、西齋(서재)を置き、ほかにも、上級生の成績優者からは前榜(전방)として、新入生の成績優者は新榜(신방)として会議に参加した。また斎会には齋生の処罰する権限があり、最悪の場合、黜齋(출재)といい、退学させられた。

時には、政治に関与し要求が通らない場合は、食事や授業を拒否する空齋(공재)なども行った。

構成[編集]

丕闡堂
大成殿
官位 官職 定数 備考
正二品 知事 1人 大典通編では大提学が兼任
従二品 同知事 2人
正三品堂上 大司成 1人 実質的には最高責任者
正三品堂上 祭酒 1人
従三品 司成 1人 経国大典では2人、続六典では1人
正四品 司芸 2人 経国大典では3人、続六典では2人
正四品 司業 1人
正五品 直講 4人
正六品 典籍 13人 この中の4人は承文院の参外官
正七品 博士 3人
正八品 学正 3人
正九品 学録 3人
従九品 学諭 3人
  • 吏曹の書史28人付属。
  • さらに庫直が1人、守僕が6人、使令が40人、軍士が7人いた。

脚注[編集]

  1. ^ 『高麗史』巻七十六
  2. ^ 성균관대학교

関連項目[編集]

外部リンク[編集]