慶應義塾大学
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| 慶應義塾大学 | |
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慶應義塾図書館旧館
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| 大学設置 | 1920年 |
| 創立 | 1858年 |
| 学校種別 | 私立 |
| 設置者 | 学校法人慶應義塾 |
| 本部所在地 | 東京都港区三田二丁目15番45号 |
| キャンパス | 三田(東京都港区) 日吉(神奈川県横浜市港北区) 信濃町(東京都新宿区) 矢上(横浜市港北区) 湘南藤沢(神奈川県藤沢市) 芝共立(東京都港区) |
| 学部 | 文学部 経済学部 法学部 商学部 医学部 理工学部 総合政策学部 環境情報学部 看護医療学部 薬学部 |
| 研究科 | 文学研究科 経済学研究科 法学研究科 社会学研究科 商学研究科 医学研究科 理工学研究科 政策・メディア研究科 健康マネジメント研究科 経営管理研究科 法務研究科 薬学研究科 システムデザイン・マネジメント研究科 メディアデザイン研究科 |
| ウェブサイト | 慶應義塾大学公式サイト |
慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は慶應(けいおう)、または慶大(けいだい)。
目次 |
[編集] 概観
[編集] 大学全体
慶應義塾大学は中津藩藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に1858年(安政5年)に開校した蘭学塾に由来する日本で最も古い起源を持つ大学である[1]。1863年(文久3年)には蘭学塾から英学塾に改め、1868年(慶應4年/明治元年)に、前年に購入した芝新銭座(現在の港区浜松町)の有馬家控屋敷跡に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた[2][3]。なお、「義塾」とは英語の「public school」(共立学校)の訳語とされ[2]、このとき、中津藩の家塾から近代私学としての一歩を踏み出した。1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける。)、現本部所在地に移った。また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した。 1920年(大正9年)には、大学令による大学として新発足し、文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学となり、予科・大学院を付設した。その後も徐々に学部数を増やし、2008年(平成20年)4月に学校法人慶應義塾と学校法人共立薬科大学が合併したことにより、新たに薬学部と薬学研究科を設置して、大学は10学部、大学院は14研究科となった。 第二次世界大戦前には慶應義塾大学は「三田の理財」とも称され、また伝統的に経済学部が有名である。 卒業生には経済人や実業家が多く、医師、政治家(国会議員)も多数輩出する。また、卒業生の同窓会組織である三田会は強い結束を誇る。
[編集] 塾訓・目的
「学校法人慶應義塾」を参照
慶應義塾には、「慶應義塾の目的」という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、芝・紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を元に、福澤自身が書き直したものである[4]。内容は以下の通り。
- 慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず
- 其目的は我日本国中に於ける気品の泉源智徳の模範たらんことを期し
- 之を実際にしては居家処世立国の本旨を明にして
- 之を口に言ふのみにあらず躬行実践
- 以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり
- 以上は曾て人に語りし所の一節なり 福澤諭吉書
この一文は、福澤諭吉が門下生たちに「恰も遺言の如くに」托したもので、慶應義塾の真に目的とするところを最も簡明に言い表したものと解されている[4]。
また、慶應義塾では、「独立自尊」を教育の基本に置く。これは、「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」などと説明されている(修身要領第2条[5])。独立自尊という言葉は、福澤諭吉の人となりを端的に示すものとされ、また、福澤の教えの根本を言い表すものともされる[6]。
[編集] 教育および研究
かつては体育大学ではないのにもかかわらず全学部学科において体育が必修科目であり、「塾生皆泳」なるスローガンのもと、水泳で50メートル泳法ができないと単位を取得できなかった。複数の卒業生が、自著や対談の中で単位を取るのに水泳の特訓をしたと回想している。
[編集] 学風および特色
カリキュラム制定をはじめとする近代的教育システムのほとんどを日本で最初に導入した学校[要出典]として知られている。
慶應義塾大学では、日本の学校で最初に定額の授業料を納入させたのは慶應義塾でありこれは福澤諭吉の発案である[7]。
[編集] 沿革
[編集] 年表
- 1858年 - 福澤諭吉が江戸築地鉄砲洲に蘭学塾を開く。
- 1863年 - 英学塾へ改組。
- 1868年 - 芝新銭座に移転、慶應義塾と改称。
- 1871年 - 芝新銭座の校地を近藤真琴の攻玉塾へ譲り、三田の島原藩中屋敷跡地へ移転。
- 1881年 - 明治十四年の政変。
- 1889年 - 慶應義塾規約制定。
- 1890年 - 大学部が発足し、文学・理財・法律の三科を設置。また大学部と区別するために従来の課程を普通部とした。
- 1920年 - 大学令による旧制大学となり、文学部・経済学部・法学部・医学部を設置。三年制の予科を附設
- 1934年 - 日吉地区(現在の日吉キャンパス)を設置、予科を移転。
- 1944年 - 藤原工業大学(1939年設立)が慶應義塾に寄付され、工学部を設置。
- 1945年 - GHQによって日吉キャンパスが接収される。
- 1948年 - 通信教育部を設置。
- 1949年 - 学制改革により新制大学となる。日吉キャンパスの接収解除、返還される。
- 1957年 - 慶應義塾の創立から100周年にあたり商学部を開設。
- 1981年 - 工学部を理工学部に改組。
- 1988年 - 女子厚生学院を改組して慶應義塾看護短期大学看護学科が開学(募集は平成12年度まで)。
- 1990年 - 湘南藤沢キャンパスに総合政策学部と環境情報学部を新設。
- 1991年 - 総合政策研究所・環境情報研究所・言語コミュニケーション研究所開設。
- 1994年 - 大学院政策・メディア研究科修士課程開設。
- 1996年 - 大学院政策・メディア研究科後期博士課程開設、総合政策研究所・環境情報研究所・言語コミュニケーション研究所をSFC研究所に改組。
- 2001年 - 看護短期大学を看護医療学部に改組。看護短期大学の募集を停止。
- 2002年 - 湘南藤沢キャンパスに教職課程設置。
- 2004年 - 大学院法務研究科(法科大学院)を開設。
- 2005年 - 大学院健康マネジメント研究科修士課程開設。
- 2007年 - 大学院健康マネジメント研究科後期博士課程開設。
- 2008年 - 学校法人慶應義塾と学校法人共立薬科大学が合併、薬学部と大学院薬学研究科を設置。同年大学院システムデザイン・マネジメント研究科と大学院メディアデザイン研究科を開設。イギリスのチャールズ皇太子が三田キャンパスを訪問。大阪市福島区中之島の再開発地区「ほたるまち」に、「慶應大阪リバーサイドキャンパス」を設置。
[編集] 基礎データ
[編集] 所在地
- 三田キャンパス(東京都港区)
- 日吉キャンパス(神奈川県横浜市港北区)
- 信濃町キャンパス(東京都新宿区)
- 矢上キャンパス(横浜市港北区)
- 湘南藤沢キャンパス(神奈川県藤沢市)
- 芝共立キャンパス (東京都港区)
- 新川崎タウンキャンパス
- 鶴岡タウンキャンパス
- 浦和共立キャンパス
- 慶應大阪リバーサイドキャンパス
- 慶應丸の内シティキャンパス
[編集] 象徴
[編集] 校歌
校歌は慶應義塾塾歌。作詞:富田正文、作曲:信時潔。1940年に完成、翌年発表。慶應義塾関係者は「塾歌」と呼び、親しんでいる。大学本体のみならず、一貫教育校(高等学校、普通部、幼稚舎など)を含め、慶應義塾社中で広く歌われている。 塾内進学により大学に入学した塾生(慶應用語で言うところのいわゆる内部生)は殆ど全員が歌えるが、現在の慶應義塾大学では歌う機会が少ないため、入学試験によって慶應義塾大学へ入学した塾生(いわゆる外部生)は歌えないことも多い。
[編集] 若き血
若き血(わかきち)は応援歌。作詞・作曲とも堀内敬三。1927年に発表。
東京六大学野球連盟の応援では1得点挙げるごとに観客が肩を組み若き血を合唱するなど、スポーツの応援では定番の曲となっている。「慶應義塾塾歌は歌えないが若き血は歌える」という学生も少なくない。
歌詞の最後にある「陸の王者」は藤山一郎が「りくのおうしゃ(清音)」と歌っていたことから濁らないのが正式であると慶應義塾大学の関係者の一部ではいわれている。しかし、ほとんどの学生・教職員は「おうじゃ」と濁音で歌っている。携帯電話の着信メロディーとしてダウンロードできる。
[編集] ダッシュケイオウ
ダッシュケイオウは応援歌。高校野球など慶應義塾大学とは関係ない学校でも使用される機会が多いため、メロディライン自体は一般にもよく知られている。
[編集] スクールカラー
スクールカラーは塾旗から紺赤紺の並びの組み合わせとされている。塾旗は二種三色の色使いであることから、三色旗とも呼ばれている。
[編集] シンボルマーク
シンボルマークは、「ペンマーク」と呼ばれ、二つのペンを右を上にして交差させた「CALAMVS GLADIO FORTIOR (ペンは剣よりも強し)」をモチーフとしたマークである。大学内にあるマンホールまでこのシンボルマークが使われている。
[編集] マスコット
マスコットはユニコーン。三色旗の上に描かれたものが応援の際などに使われる。慶應義塾のアメリカンフットボールチームの名称はユニコーンズである。
[編集] 教育および研究
[編集] 学部
- 文学部
- 人文社会学科
- 哲学系
- 哲学専攻
- 倫理学専攻
- 美学美術史学専攻
- 史学系
- 日本史学専攻
- 東洋史学専攻
- 西洋史学専攻
- 民族学考古学専攻
- 文学系
- 国文学専攻
- 中国文学専攻
- 英米文学専攻
- 独文学専攻
- 仏文学専攻
- 図書館・情報学系
- 図書館・情報学専攻
- 人間関係学系
- 社会学専攻
- 心理学専攻
- 教育学専攻
- 人間科学専攻
- 哲学系
- 人文社会学科
- 経済学部
- 経済学科
- 法学部
- 法律学科
- 政治学科
- 日本国内の政治学科としては教員数及び科目数が最多である[8]。
- 商学部
- 商学科
- 医学部
- 医学科
- 理工学部(元藤原工業大学)
- 学門1,2,3,4,5(一年次)
- 機械工学科
- 電子工学科
- 応用化学科
- 物理情報工学科
- 管理工学科
- 数理科学科
- 物理学科
- 化学科
- システムデザイン工学科
- 情報工学科
- 生命情報学科
- 総合政策学部
- 総合政策学科
- 環境情報学部
- 環境情報学科
- 看護医療学部
- 看護学科
- 薬学部(元共立薬科大学)
- 薬学科
- 薬科学科
- 通信教育部
[編集] 文学部
一学年 定員800名(一般入試580名、自主公募推薦120名、残りは内部進学)
旧制大学時代に設置されていた文学科を新制大学時に改組して設置した学部。 大きな特徴として、入学時は全員が人文社会学科に所属し、第二学年進級時に各自の進みたい17専攻に行けるという点があげられる。 また、三田文学会の機関誌として三田文学を発行しており、反自然主義系文学として現在に至っている。
[編集] 経済学部
一学年 定員1200名(一般入試A方式500名、B方式250名、内部進学450名)
旧制大学時代に設置されていた理財科を新制大学時に改組して設置した学部。環境経済学などの他の大学では余り開講されていない学問分野もそろえている。
Professional Career Programmeという、経済学教育を英語で行うということを特色としたプログラムが用意されている。授業はもとより、教員やTAとの連絡や会話も英語で行われている。これによって、英語力の強化と経済学を強みにしたキャリア構築の可能性を学生に提供している。PCPとしては、国内外の専門大学院進学の基礎となる力を身につけることを目標に掲げている。
[編集] 法学部
一学年 定員約1250名(一般A方式(センター試験)100名、B方式460名、指定校推薦180名、AO(FIT)入試最大60名、帰国・留学生入試60名、内部進学者420名)
法律学科、政治学科の二学科によって成り立ち、それぞれ上記の募集枠は半分となる。
[編集] 商学部
一学年 定員1000名(一般入試A560名、B140名、指定校推薦150名、残りは内部進学)
学部設立は1957年、慶應義塾創立100周年を機に行われた。しかし、商学研究自体は、1873年に福澤諭吉がアメリカの商業学校で使用されていた『ブックキーピング』という教科書を『帳合之法』という翻訳書として発行した[9]時点まで遡る。また、1935年には経済学部内に経済学科(甲科)とは別に商業学科(乙科)が開設されている[10]。これは福澤諭吉の建学の精神の一つである「実学」を最も体現すると言われている学部と自負し、経営、会計、商業、経済・産業の4つの領域からなる。
[編集] 理工学部
[編集] 概要
一学年 定員1050名(一般入試650名、指定校推薦195名、AO入試若干名、残りは内部進学)
理工学部は、藤原工業大学を前身とする工学部が改組されたことにより設置された。
入学制度の特色として、学門制度を取り入れている。入学時に5つある学門の何れかに所属し、それぞれの特色により進学できる学科が異なる。もちろん講義の必修科目にも多少違いがある。一年次に進路を考え、二年次にそれぞれの特色に沿った学科に進学することで、進路の幅にやや余裕が持てるメリットがある。
研究大学らしく学部卒業生の7割が大学院に進学する。研究は徹夜で取り組むことも多いために一晩中電気が点いている様から「不夜城」の異名をとる。
[編集] 沿革
- 1939年 藤原銀次郎により藤原工業大学(機械工学科・電気工学科・応用化学科)が開校。
- 1944年 藤原工業大学が慶大に寄付され工学部となる。
- 1972年 現在の矢上キャンパスに移転。
- 1981年 工学部から理工学部に改組。
[編集] 使用キャンパス
理工学部1,2年生はここで他学部生と共に勉学に励む。
理工学部3,4年生および研究科生はここでより専門的な教育を受け、または研究活動に勤しむ。 日吉キャンパスのすぐ北側に位置する。
[編集] 医学部
[編集] 概要
一学年 定員110名(一般入試66名、内部進学44名)
医学部は、1917年、福澤諭吉の遺志をくみ、北里柴三郎を初代学部長として設立された。
慶應義塾大学では看護学系が看護医療学部として分かれているため、医学科のみが置かれている。6年教育であり、日吉キャンパスで主に一般教養を、信濃町キャンパスで医学を学ぶ。2001年度入学生までは信濃町キャンパスが2年の秋学期一部から(2年次の秋学期の特定曜日のみ信濃町で解剖学などの実習)だったため、旧制大学時代に倣って1,2年を予科1,2と呼び、3,4,5,6年を学1,2,3,4と呼ぶ。
基礎医学と臨床医学の連携のもと、患者側の視点に立った臨床のための医学の発展を目的として設立されている[1]。医学部六年生の夏休みにアメリカのメディカルスクールに短期留学できるほか、ラテンアメリカなどの医学部での交流プログラムがある。また、低学年の間にも海外の他大学[11]との交流会などが用意されている。
[編集] 沿革
- 1870年(明治3年) - 慶應義塾の塾生前田政四郎の希望により、福澤諭吉が英国式の医学所の開設を決定する。
- 1873年(明治6年) - 慶應義塾内に医学所を開設する。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を訓練の場所とした。
- 1880年(明治13年)6月 - 医学所が閉鎖される。
- 1916年(大正5年)12月27日 - 慶應義塾に医学部の創設が許可される。
- 1917年(大正6年)3月 - 医学部予科1年生の募集開始。初代の医学部長として北里柴三郎が就任する。
- 1920年(大正9年) - 医学部が大学医学部に昇格。医学部校舎と附属病院が信濃町に新築される。
- 1937年(昭和12年) - 北里記念医学図書館が創立される。
[編集] 使用キャンパス
医学部一年生はここにて、法学部、経済学部などの学生と共に、教養科目を受講。
二年生より六年生までは、ここで臨床医学を身につける。
[編集] 総合政策学部・環境情報学部
一学年 定員各450名(一般入試275名、AO入試100名、残りは内部進学)
総合政策学部と環境情報学部は湘南藤沢キャンパスにおいて、他の学部とは大きく違った独自の教育が実施されている。この節では両者に共通する特徴などをまとめた。
[編集] 基本理念
「創造性の重視」「問題発見・解決型」。今の世の中に存在する雑多な諸問題を発見・解決していく人材を創出することを目的としている。その為、従来のリベラルアーツと専門知識の詰め込みだけではなく、研究プロジェクトを中心に置き、その中で見えてくる学生自身が足りない必要な知識 (カリキュラム) を見つけ、取得し、補いながら研究を進めていくという、従来とは全く違う独創的なスタイルの構築を関係者は意図している。
[編集] 特徴
大学では「学問の再編成」をキーワードとして自由度の高い履修システムを使用している。基本的に各授業には学年による履修制限を課さず、学部1年生から専門的な授業を履修できる。また、学部と大学院で共有する授業を多く設置している。
また、「半学半教」の理念から学生、特に学部生の雇用に積極的である。具体的には図書館スタッフ、コンピュータやマルチメディアの相談員、キャンパス内の設備利用ガイドの編集員、教育補助員 (学部生はSA、院生はTAと称する) などである。
湘南藤沢キャンパス内にある湘南藤沢中・高等部と大学の連携として、湘南藤沢中・高等部の「ゆとりの時間」という選択授業の中で一部大学授業を履修できる。
[編集] 通信教育部
財団法人私立大学通信教育協会に加盟している。慶應義塾大学本部のある三田キャンパスに事務局がある。
- 学部構成
- 入学の種類及び入学資格
- 入学選考は基本的には書類選考だが、学問領域関連書籍の論評などを含む志望理由書を提出する必要がある。
- 普通課程
- 高等学校卒業または見込み者
- 高等学校卒業程度認定試験(大検含む)合格者。
- 大学入学資格が付与されている専修学校高等課程の卒業者または見込み者。
- 特別課程
- 学士入学
- 入学式
- 慶大本部のみならず、大阪では関西大学で入学式が行われることがある。
- スクーリング
- 夏期スクーリング
- 夜間スクーリング(毎年概ね9月下旬から12月中旬まで毎週月曜日から金曜日までの18時~20時まで東京の三田校舎で実施されている。)
- 実験スクーリング(夏期において日吉キャンパスで行われる。希望者のみ受講できる。学士入学者は受講不可)
- 体育実技スクーリング(選択制で4単位まで卒業所要単位として加算される。日吉キャンパスにて夏期に行われる。冬期にはスキースクーリングもある)
- 通年スクーリング(通学課程の授業を受けられる特別なスクーリングで、受講には一定の条件が必要。)
- 地方スクーリングはないので、東京の三田キャンパスと横浜の日吉キャンパスまで通学する必要がある。
- 単位修得試験
- 年に4回行われる。三田キャンパス以外でも行われている。各群1科目、合計最大6科目まで受験できる。
- 卒論が必修で8単位ある。
[編集] 大学院
- 文学研究科
- 経済学研究科
- 法学研究科
- 社会学研究科
- 商学研究科
- 医学研究科
- 理工学研究科
- 政策・メディア研究科
- 健康マネジメント研究科
- 経営管理研究科(ビジネススクール、経営大学院に改組予定)
- 経営管理研究科は、1978年に大学院経営管理研究科経営管理専攻として設立認可を受け、日本初の2年制MBAコース(大学院修士課程)として設立された。米国のハーバード・ビジネス・スクールに倣ったケースメソッドを主として採用した教育を行い、2000年4月、日本で最初にAACSBからの認証を取得している[12]。米国のビジネス・スクールと同様、大学の学部を卒業したばかりの者の入学は前提としておらず、数年以上の実務経験を有する社会人の教育を対象としたカリキュラムが組まれている。MBA取得のためには、社会人が2年間休職して(あるいは企業派遣で)フルタイムでカリキュラムに参加する必要がある。修士課程修了者にはMBA(経営学の修士号)が授与される。通称は慶應ビジネス・スクール。略称はKBS。教室は2008年9月より協生館へ移転している。さらにESSECと協定を結び、2009年度から双方の学生が転籍することなく、両校で1年ずつ学ぶことで両校の学位を同時に取得可能とするプログラムを開設予定である[13][14]。
- 法務研究科(法科大学院)
- メディアデザイン研究科
- システムデザイン・マネジメント研究科
- 薬学研究科
[編集] 附属機関
- 総合医科学研究センター
- 先端科学技術研究センター(KLL)
- グローバルセキュリティ・リサーチセンター(G-SEC)
- 総合研究推進機構
- 国際連携推進機構(OGI)
- デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構(DMC)
- 日本語・日本文化教育センター
- 法学研究所
- 言語文化研究所
- メディア・コミュニケーション研究所(旧新聞研究所)
- SFC研究所
- 産業研究所
- 東アジア研究所
- 先端生命科学研究所
- 体育研究所
- 附属研究所斯道文庫
- 福澤研究センター
- 国際センター
- アート・センター
- 教職課程センター
- 外国語教育研究センター
- 教養研究センター
- スポーツ医学研究センター
- 保健管理センター
- 研究推進センター
- 知的資産センター
- インキュベーションセンター
- 研究支援センター本部
- 三田研究支援センター
- 日吉研究支援センター
- 矢上研究支援センター
- 信濃町研究支援センター
- 湘南藤沢研究支援センター
- 先端研究教育連携スクエア事務室
- 慶應義塾大学病院
[編集] 出版会
慶應義塾大学の出版部門として慶應義塾大学出版会がある。慶應義塾大学出版会は組織的に独立した株式会社であり、大学の附属機関ではない。しかしながら慶應義塾大学関係の書籍を出版するなど、大学本体との関わりが深いので、本節においてまとめた。詳細は該当記事を参照のこと。
[編集] 研究
[編集] 21世紀COEプログラム
- 採択12件
- 2002年
- 生命科学
- システム生物学による生命機能の理解と制御
- 化学材料科学
- 機能創造ライフコンジュゲートケミストリー
- 情報電気電子
- アクセス網高度化光・電子デバイス技術
- 人文科学
- 心の解明に向けての統合的方法論構築
- 学際複合新領域
- 次世代メディア・知的社会基盤
- 2003年
- 医学系
- 低侵襲・新治療開発による個別化癌医療確立
- 幹細胞医学と免疫学の基礎・臨床一体型拠点 -ヒト細胞とin vivo 実験医学を基盤とした新しい展開-
- 数学物理学地球科学
- 統合数理科学、現象解明を通した数学の発展
- 機械土木建築その他工学
- 知能化から生命化へのシステムデザイン
- 社会科学
- 市場の質に関する理論形成とパネル実証分析
- 多文化多世代交差世界の政治社会秩序形成ー多文化世界における市民意識の動態
- 日本・アジアにおける総合政策学先導拠点
[編集] グローバルCOEプログラム
- 採択7件
- 2007年
- 2008年
- 医学系
- 幹細胞医学のための教育研究拠点
- 機械土木建築その他工学
- 環境共生・安全システムデザインの先導拠点
- 社会科学
- 市場の高質化と市場インフラの総合的設計
- 市民社会におけるガバナンスの教育研究拠点
[編集] 学生生活
[編集] 部活動・クラブ活動・サークル活動
- 慶應義塾大学硬式庭球同好会連盟(けいおうぎじゅくだいがく こうしきていきゅうどうこうかいれんめい)というテニスサークル連盟がある。現在、31サークルから成り立ち、公称会員数4000人、「日本最大規模のテニスサークル連盟」を自称している[要出典]。
[編集] 学園祭
各キャンパスごとに、「三田祭」(三田キャンパス)、「四谷祭」(信濃町キャンパス)、「矢上祭」(矢上キャンパス)、「七夕祭」、「秋祭」(湘南藤沢キャンパス)、「共薬祭」(芝共立キャンパス)が開催されている。
このうち、三田祭が最大規模であり、他キャンパスの学生も多く参加する。慶應義塾大学が公式に「学園祭」としているのは三田祭のみである。その他のキャンパスごとのイベントは有志によるものに過ぎないとされているが、実質的には「学園祭」として認知されており、慶應義塾大学の受験生向けパンフレットなどにも紹介されている。
なお、日吉キャンパスで行われる日吉祭は慶應義塾高等学校の文化祭である。
[編集] 三田祭
三田祭は、毎年11月23日前後に例年4日間行われる。運営しているのは三田祭実行委員会。三田祭の規模は大学祭では日本国内最大である。三田祭のイベントとして行われるミスコンテストの優勝者『ミス慶應』は、その後女子アナやタレントになることが多く、芸能関係者の間では注目されている。
歴代ミス慶應(芸能活動への進出が確認された受賞者のみ)
| 年 | 名前 | その後の活動 |
|---|---|---|
| 1995 | 與芝由三栄 | NHKアナウンサー |
| 1996 | 末吉里花 | タレント |
| 1997 | 山田玲奈 | タレント |
| 1998 | 籠島範子 | 歌手(ソニーミュージック所属) |
| 1999 | 中野美奈子 | フジテレビアナウンサー |
| 2000 | 鈴江奈々 | 日本テレビアナウンサー |
| 2001 | 青木裕子 | TBSアナウンサー |
| 2006 | 竹内由恵 | テレビ朝日アナウンサー |
| 2008 | 本山華子 | タレント |
このように華やかさばかりに目が向けられる三田祭であるが、三田祭発表として経済学部・商学部・法学部・文学部・メディア・コミュニケーション研究所のゼミナール論文発表なども行われており、3年生の活動の中心に置くゼミも多い。
三田祭開催の1~2週間前には、前夜祭がほぼ毎年行われており(前夜祭のみ日吉キャンパスで行われる)、有名人のコンサートが開催される。
歴代前夜祭出演アーティスト
| 年 | 名前 |
|---|---|
| 1981 | 松任谷由実 |
| 1982 | 佐野元春・山下久美子 |
| 1983 | 沢田研二 |
| 1984 | 時任三郎 |
| 1985 | 稲垣潤一 |
| 1986 | 渡辺美里 |
| 1987 | 杉山清貴 |
| 1988 | 久保田利伸&Mother Earth バブルガムブラザーズ |
| 1989 | 米米CLUB |
| 1990 | 安全地帯 |
| 1991 | スターダスト・レビュー |
| 1992 | 森高千里 |
| 1993 | 佐野元春 |
| 1994 | 谷村有美 |
| 1995 | 今井美樹 |
| 1996 | 井上陽水 with RISKS |
| 1997 | 中止 |
| 1998 | 小田和正 |
| 1999 | 知念里奈・篠原ともえ |
| 2000 | 中止 |
| 2001 | 中島みゆき |
| 2002 | 中止・三田祭本祭初日にシークレットライブとして相川七瀬 |
| 2003 | 松浦亜弥 |
| 2004 | CHAGE and ASKA |
| 2005 | MISIA |
| 2006 | TRF |
| 2007 | ORANGE RANGE |
| 2008 | 倖田來未 |
卒業OBの多くが母校の文化祭を訪れるのが慶應の特徴であり、三田祭の開催時には三田キャンパス付近の桜田通りが、慶應の校章が描かれている紙バックを持ったOBで賑わう。
[編集] スポーツ
体育会の正式名称は「慶應義塾體育會」(けいおうぎじゅくたいいくかい)である。「慶應義塾大学体育会」としている文献が存在するが、正式名称では「大学」の語は使用しない。2008年現在、40部54部門が所属している。体育会各部間の意見交換や、体育会全体に関わる会議・行事の企画・進行や広報活動を行う組織として、體育會本部を置く。体育会部員から選出された常任委員がこうした業務に携わっている。また、体育会事務室という慶應義塾大学の部署が設置され、専任の大学職員が常駐している。体育会事務室は学生主体の體育會本部と連絡を取りながら体育会の運営をサポートしている。
- 野球部は東京六大学野球連盟に加盟しており、東京六大学野球が発祥する大元となった慶早戦(早慶戦)は大学野球ファンの間では著名である。なお、大学野球における慶早戦の盛り上がりがきっかけとなり、ラグビー部や端艇部(ボート競技)でも慶早戦が行われるようになった。詳細は慶早戦を参照。
- 箱根駅伝では、1932年に優勝している。
- ラグビー部は慶應義塾體育會蹴球部が正式名称である。1899年創立であり、日本ラグビーフットボール協会では「日本ラグビーのルーツ校」[15]としている。関東大学ラグビー対抗戦グループに所属している。
- サッカー部はソッカー部が正式名称。サッカー関係者には伝統校として著名である。
- バスケットボール部の愛称はユニコーンズ。全日本学生バスケットボール選手権大会初代王者でもある。
- ラクロス部は1985年に日本初のラクロス部として創設され、特に男子ラクロス部は全日本優勝5回、関東学生リーグ優勝15回という成績を残している。
[編集] 園遊会
園遊会は、学位授与式(卒業式)の後に開催される卒業パーティーである。慶應義塾大学卒業準備委員会が主催している。パーティーで行われる抽選大会の1等賞品は毎年通例として外車である。このような豪華な賞品を出すことについて、一部卒業生や大学教職員の間からは必ずしも賛同の声ばかりが寄せられるわけではない。2006年現在、会費は2万円強で参加は任意である。賞品はOBが役員を務める企業からの寄付が多い。卒業準備委員会の粗雑な財務管理や園遊会参加後の卒業生の行為による苦情から、2009年3月からの園遊会の開催は一旦中止となり現卒業準備委員会も解散することとなった[16]。
なお、解散した卒業準備委員会とは別の有志による団体が、2009年3月以降も(非公式ではあるが)園遊会を存続させるための活動を行っている。[17] 2009年度の園遊会は、再び公式行事として開催される予定である。
- テイクオフラリー
- SFC(湘南藤沢キャンパス)では、キャンパス開設当初から独自の卒業パーティーが開催されている。2009年、園遊会の中止によって慶應義塾大学における公式の卒業パーティーはテイクオフラリーのみとなった。
[編集] 大学関係者と組織
[編集] 大学関係者組織
慶應義塾では、在学生を「塾生」、卒業生を「塾員」、学生・卒業生・教員などの関係者を総称して「社中 (または義塾社中)」と呼ぶ。また、福澤諭吉を除いては、敬称を「君(くん)」とする習慣がある[18]。これは、慶應義塾において「先生」は福澤諭吉ただ一人であるという思想から発生したもので、現在も構内掲示などの教員名は「~君」表示になっているほか、慶應義塾の公式文書においてもしばしば「君」表記が使用される[19]。
慶應義塾における「塾長」とは、慶應義塾大学の学長と学校法人慶應義塾の理事長を兼ねており、慶應義塾内で学長や理事長と言った呼称が使われることはまずほとんどない。
[編集] 三田会
三田会(みたかい)は慶應義塾大学の卒業生(塾員)による同窓組織。卒業生でなくとも教員として在籍した者として入会できる場合もある[20][21]。現在各種三田会総数は865団体あり、約28万人の塾員の多くがこうした三田会に所属している。島田裕巳は三田会について他大学に例を見ない強固な団結力を誇り、生涯に渡って塾員としての誇りとアイデンティティを共有する基盤となっている旨のことを著作に記している[22]。数多くある三田会のうち、代表的なものは次のとおりである。
- 年度三田会 (73団体)
- いわゆる「同期会」に相当するもので、同年卒業生の塾員で構成され、大学卒業と同時に入会する。この三田会最大のイベントは、卒業25年目にその年の卒業式に、50年目に入学式に招待されること。つまり慶應を卒業すると、一生のうちに2度入学式・卒業式に参列できることになる。
- 地域三田会 (国内231団体・海外57団体)
- 各地域ごとの塾員で結成される三田会。
- 職域三田会 (308団体)
- 三田法曹会、公認会計士三田会、ホテル三田会、歯科三田会や会社ごとの三田会など、同じ職種や職場の塾員によって組織される三田会。
- 三四会
- 医学部の同窓会。1917年に創設。名称の謂われは「三田」の「三」と医学部の存在する地名の「四谷」の「四」の一字を組み合わせている。
- 紅梅会
1934年設立、看護教育を受けた卒業生による同窓会。
これらを統括するのは、連合三田会と呼ばれる団体である。また、毎年10月ごろには塾員の交流を目的とした連合三田会大会が開催されている。帝国ホテルの地下には「東京三田倶楽部」があり、立ち入りが許されるのは塾員のみである[22]。
[編集] 大学関係者一覧
[編集] 施設
[編集] キャンパス
人の行き来が頻繁な三田と日吉キャンパス間の交通については、嘗ては東横線と都バスもしくは山手線を乗りついて1時間半位掛かったが、南北線の開通後は日吉駅から直通で、白金高輪駅、麻布十番駅もしくは三田駅経由で40分位で行き来が可能になった。
[編集] 三田キャンパス
- 使用学部:文学部2-4年、経済学部・法学部・商学部3・4年
- 使用研究科:文学研究科・経済学研究科・法学研究科・社会学研究科・商学研究科・法務研究科(法科大学院)
- 使用附属施設:Stub
- 交通アクセス:JR山手線・京浜東北線田町駅、都営三田線・都営浅草線三田駅、南北線・白金高輪駅、麻布十番駅、都営大江戸線赤羽橋駅
慶應義塾中等部が綱坂を挟んで隣接している。また、付近に慶應義塾女子高等学校がある。
[編集] 日吉キャンパス
- 使用学部:文学部・医学部・薬学部1年、経済学部・法学部・商学部・理工学部1・2年
- 使用研究科:経営管理研究科、システムデザイン・マネジメント研究科、メディアデザイン研究科
- 使用附属施設:Stub
- 交通アクセス:東急東横線、東急目黒線、横浜市営地下鉄グリーンライン日吉駅
慶應義塾高等学校がキャンパス内に併設されている。また、駅を挟んだ向かい側に慶應義塾普通部がある。慶應義塾大学の学生の間には、他のキャンパスへの進級後に日吉キャンパスの授業を再履修する意味を表す「来日」、留年して日吉キャンパスに留まる意味を表す「在日」、他のキャンパスに進級できず慶應を去る意味を表す「日没」という俗語がある。
[編集] 矢上キャンパス
- 使用学部:理工学部3・4年
- 使用研究科:理工学研究科
- 使用附属施設:Stub
- 交通アクセス:東急東横線、東急目黒線、横浜市営地下鉄グリーンライン日吉駅
元は、藤原工業大学のキャンパスで、統合時に慶應義塾大学のキャンパスになった。
[編集] 信濃町キャンパス
- 使用学部:医学部2-6年および看護医療学部3年
- 使用研究科:医学研究科
- 使用附属施設:慶應義塾大学病院、総合医科学研究センター、北里記念医学図書館、信濃町メディアセンター(北里記念医学図書館内部)
- 交通アクセス:JR中央・総武緩行線信濃町駅
[編集] 湘南藤沢キャンパス
総合政策学部・環境情報学部の全学年、看護医療学部の1・2・4年、大学院政策・メディア研究科が使用するキャンパスである。
詳細は「慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス」を参照
[編集] 芝共立キャンパス
- 使用学部:薬学部2-6年
- 使用研究科:大学院薬学研究科
- 使用附属施設:慶應義塾大学薬学部附属薬局、生体防御薬学研究センター
- 交通アクセス:JR山手線・京浜東北線浜松町駅、都営地下鉄三田線御成門駅、都営地下鉄浅草線・大江戸線大門駅
かつて共立薬科大学の本部が設置されていたキャンパス。両学校法人の合併により慶應義塾大学のキャンパスとなった。
[編集] サテライトキャンパス
サテライトキャンパスは学校法人間による統合及びリベラルアーツ教育拠点、産学及び大学間連携を目的にして設置されている。通信制大学でもある、慶應義塾大学の単位認定試験会場でもあり、スクーリングなどの指定会場でもある。サテライトキャンパスとして以下が設置されている。
- 新川崎タウンキャンパス (キャンパス全体が慶應の施設ではない。略称はK2TC)
- 鶴岡タウンキャンパス
- 浦和共立キャンパス
- 慶應大阪リバーサイドキャンパス
- 慶應丸の内シティキャンパス
[編集] 対外関係
[編集] 系列校
慶應義塾は、大学を頂点とする附属校ではなく、あくまで同一学校法人が運営する独立した学校の集合体という形態を取っている。
[編集] 一貫教育校
慶應義塾では自らの設置する以下の学校へ入学した場合、大学まで全員が進学することを前提に統一したカリキュラムを組んで教育を行っている。そこで、慶應義塾では以下の学校についてはまとめて「一貫教育校」と呼んでいる。以下の学校を卒業すると全員、無試験で大学への推薦入学できる(エスカレーター式)。 これらの学校から推薦入学する生徒は、大学全体の2割以上を占める。
- 高等学校
- 中高一貫校
- 中学校
- 小学校
[編集] その他
以下の教育機関は「一貫教育校」ではなく、入試制度も全く他の機関とは水準が異なるため、別のものとして掲載する。
[編集] 社会との関わり
[編集] 幻の李登輝の講演
慶應義塾大学文化団体連盟に所属する経済新人会というサークルが、2002年11月、中華民国(台湾)前総統李登輝を迎える講演会を企画した[23]。日本政府が来日に必要なビザ発給を拒否する構えを示したため、李登輝は訪日を断念して実現しなかった。
[編集] 内部リンク
[編集] 附属学校
慶應義塾は、大学を頂点とする附属校ではなく、あくまで同一学校法人が運営する独立した学校の集合体という形態を取っているため、系列校の項目にまとめている。
[編集] Wiki関係他プロジェクトリンク
[編集] 公式サイト
[編集] 外部リンク
- 慶應義塾大学病院 (大学病院の理念等の記述あり)
[編集] 脚注
- ^ 〔慶應義塾豆百科〕No.4 慶應義塾の起源、慶應義塾大学。
- ^ a b 〔慶應義塾豆百科〕 No.7 塾名の由来、慶應義塾大学。
- ^ 慶應義塾大学の名は旧字体の「慶應」の他、新字体の「慶応」や、「广」の部分以外をKとOに置き換えた「广+K」「广+O」からなる造字で表記することもある。
- ^ a b 〔慶應義塾豆百科〕No.53 「慶應義塾の目的」、慶應義塾大学
- ^ 〔慶應義塾豆百科〕No.60 独立自尊、慶應義塾大学。
- ^ 独立自尊の4字は、福澤諭吉の戒名「大観院独立自尊居士」にも取り入れられている。この名は、高弟・小幡篤次郎の撰によるとされる。
- ^ 慶應義塾豆百科No.12 授業料
- ^ 慶應義塾大学法学部 学部紹介 概要
- ^ 慶應義塾図書館 帳合之法
- ^ 慶應義塾豆百科 No.94
- ^ 韓国の延世大学校の交流会がある
- ^ KEIO BUSINESS SCHOOL AACSB認証を受けている
- ^ L’ESSEC et Keio Business School lancent le premier double diplôme franco-japonais
- ^ MBAで初の二重学位、仏エセックと締結 慶大大学院日本経済新聞社、2008/09/0717:40更新
- ^ 日本ラグビーフットボール協会
- ^ 『週刊新潮』2008年10月30日号に、園遊会中止についての記事が掲載されている。
- ^ 慶應塾生新聞 - 今年度も園遊会存続へ~有志による非公式の開催
- ^ 学内の掲示や公式文書、式典などでは実際に「君」が用いられるが、一般と同様に、日常の会話においては学生が教職員を「君」と呼ぶことはない。
- ^ 慶應義塾豆百科
- ^ 慶應大学医学部三四会 会則(PDF)
- ^ ボストン三田会会則
- ^ a b 島田裕巳 『慶應三田会―組織とその全貌』 三修社、2007年。ISBN 978-4-384-03941-2。
- ^ 金美齢; 月刊『自由民主』2002年12月号 (12月 2002年). "李登輝さんは日本に悪いことをしたのですか" (日本語). 金美齢ホームページ. 自由民主党. 2008-12-01 閲覧。
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