愨大機

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愨大機(かくたいき 1829年(文政12年)8月 - 1891年(明治24年)1月)は大字高畑の曹洞宗大徹山万久寺の15世住職名古屋出身。諱は覚道。字は大機。姓は佐藤[1]

生涯[編集]

幼少で出家し、仏道へ。名古屋の光明寺主席を経て、1865年元治2年)当寺住職となる。

明治維新となり、宗教改革が行われると、教導職となる。その後、大購義補岐阜県教導職取締になった[2]

管長の命により、対馬の寺院紛争解決をした。62歳で死去。

逸話[編集]

  • 資性磊洛で、顕栄を好まなかった。
  • 寺を開放して、寺小屋を設けて、子弟の教育にあたった。学ぶものは通算千人余人に達した。風俗が改まったという。
  • 遺文に『羅浮石記』がある。同寺の庭園に置かれている。詩と書が残されている[3]

脚注[編集]

  1. ^ 『富加町史』「愨 大機」
  2. ^ 14年間なり、宗教行政に功績
  3. ^ 「碑を建設し、遺文は、五三〇字あまりの漢文である」[どこ?]

関連項目[編集]