悪平等

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悪平等(あくびょうどう)とは、平等が一定の価値をもつとみなされている社会や組織において、それがかならずしも良いものではないことを主張するために用いられる表現。平等という概念にがんじがらめにされた挙句かえって不平等や能力発揮機会の喪失を招くといったことが含意されている。

平等概念への批判の歴史は、平等概念そのものの歴史と同じだけ長く、平等が害悪をもたらすのではないかという指摘は古くから行われてきた。政治学や法学においては、自由と平等のどちらが優先されるべきかといった議論や、機会の平等と結果の平等を峻別する考え方などを通じて、平等がもたらすかもしれない好ましくない結果をどうすれば回避できるかが検討されてきた。

政治学的に見れば、統治する者とされる者が決定的に隔てられている制度のもとや、財産の程度に応じて政治参加の可能性が決定されているような制度のもとでは平等を真剣に論じる意味は決して大きくなかったのであり、平等が最も問題になるのは民主主義的制度のもとにおいてであるから、平等がもたらす悪についての指摘は民主主義に対する批判と最も強く結びついていた。

とはいえ2000年前後から平等に対する批判が声高に喧伝されるのは、政治制度としての民主主義と結びついているというよりは、ある種の社会制度に対する批判として行われていると言ってよい。

例えば第二次世界大戦後の日本の学校教育について、いわゆる戦後民主主義を批判する保守的な論者たちが槍玉に挙げるのは、運動会における徒競走で順位をつけるのは不平等だから皆で手をつながせ同時にゴールさせるなどということが行われているといった事例である。かつて行われていた高校入試における学校群制度が教育における悪平等のさきがけとなった制度とみなされたり、いわゆるゆとり教育が能力の高い生徒の学力を押し殺す悪平等として批判されたりといったように、教育における平等に対する批判は対象を替えながら繰り返し行われてきた。

その際に主張されるのは、過度の競争は社会に歪みをもたらすが、悪平等が蔓延した時特に日本のような人的資源の優位性による技術立国としてしか立ち行かない国家にとっては国際競争力の低下という致命傷を負いかねない危険性をはらんでいる、といった経済的な論理であり、政治制度に対する批判とは言えない。

従って、戦後民主主義の平等という価値観に対する批判は、かつての平等概念への批判とは異なり、社会制度への批判と言える。