徐良

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徐良
Xu Liang.jpg
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1893年光緒19年)[1]
死去: 1951年
中華人民共和国の旗 中国河北省邢台市寧晋県小王荘
出身地: 清の旗 広東省広州府三水県
職業: 外交官・政治家
各種表記
繁体字 徐良
簡体字 徐良
拼音 Xú Liáng
注音符号 ㄒㄩˊ ㄌ|ㄤˊ
和名表記: じょ りょう
発音転記: シュー リャン
ラテン字 Hsü Liang
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徐 良(じょ りょう)は、中華民国の外交官・政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)で外交の要職についた人物。善伯

事跡[編集]

最初は日本に留学して横浜大同学校に入学する。次いでアメリカに留学してコロンビア大学ワシントン大学(ただし、どの「ワシントン大学」かは不明)を卒業した。帰国後は北京政府の司法部、外交部、内務部で秘書をつとめた。その後、駐米公使館秘書、広東省長公署秘書、直魯豫巡閲使参賛、瓊州交渉員、両広巡閲使署高等顧問、総統府顧問、山東督軍公署顧問、長江巡閲使顧問などを歴任した。国民政府でも、駐米公使館随員、外交部秘書庁弁事員をつとめた。

1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)が南京国民政府を樹立すると、徐良もこれに参加した。外交部政務次長に任命され、中央政治委員会外交専門委員会主任委員も兼任した。7月、日本との国交交渉で代表をつとめる。翌年2月、東亜聯盟中国総会常務理事に就任する。翌月、文物保管委員会委員長となった。

10月、駐日大使として赴任し、修聘使節として満州国に特派される。12月、帰国して外交部長に昇格し(前部長の褚民誼と大使を交代)、翌年10月までその地位にあった。その後も、華北政務委員会委員、国民政府委員などをつとめている。

汪兆銘政権崩壊後、徐良はいったん蒋介石国民政府に逮捕され、死刑判決を宣告された[2]。しかし執行されることはなく、徐は天津市においてそのまま収監され、1949年(民国38年)に中国人民解放軍が天津市を攻略する直前に温世珍(元天津市長)らとともに釈放されている。まもなく新たに成立した天津市人民政府は、徐と温を再び逮捕した[3]

1951年7月、徐良は天津市当局により死刑判決を宣告され[4]、同年中に河北省寧晋県の小王荘刑場で処刑された[5]。享年59。

[編集]

  1. ^ 東亜問題調査会『最新支那要人伝』79頁は1892年生まれとするが、本記事は徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』1195頁をとる。
  2. ^ 仏山市三水区人民政府ホームページは、徐良の死因を明記しないまま没年を「1946年」としているが、これは明らかに誤りである。
  3. ^ 「中共、徐良氏ら逮捕」『朝日新聞』(東京)1949年2月14日、1面。
  4. ^ 「徐良元公使に死刑」『朝日新聞』(東京)1951年7月16日、1面。
  5. ^ 「昔日河北小王荘」鳳凰網、2011年2月21日。

参考文献[編集]

 Flag of the Republic of China-Nanjing (Peace, Anti-Communism, National Construction).svg 南京国民政府(汪兆銘政権
先代:
褚民誼
外交部長
1940年12月 - 1941年10月
次代:
褚民誼