徐乾学

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徐 乾学
(じょ けんがく)
徐 乾学(じょ けんがく)
人物情報
別名 ;原一
号:健庵
号:玉峰先生
室名:伝是楼
室名:碧山堂
室名:冠山堂
室名:頤保楼
室名:願遂室
室名:怡顔堂
生誕 崇禎5年(1632年
清国蘇州府崑山県
死没 康熙33年(1694年
清国
学問
時代 清国初期
活動地域 清国
学位 進士
内閣学士
主な受賞歴 会試正考官(1688年
刑部尚書(1688年
修書総裁
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徐 乾学(じょ けんがく、崇禎5年(1632年) - 康熙33年(1694年))は、中国代初期の学者政治家は原一。号は健庵・玉峰先生。室名として伝是楼・碧山堂・冠山堂・頤保楼・願遂室・怡顔堂などがある。教習堂・憺園・碧山・遂園・東海とも称する。蘇州府崑山県の出身。

生涯と業績[編集]

顧炎武の甥にあたる。8歳から良く文を読み、県学生・監生から順治17年(1660年)に挙人となり、康熙9年(1670年)に進士となる(探花、3番で合格)。同時に内弘文院の編修に任命され、康熙21年(1682年)に明史編纂総裁官、康熙24年(1685年)に大清会典副総裁、康熙25年(1686年)に大清一統志副総裁、そして内閣学士・経筵講官と礼部侍郎を兼任。康熙帝に近侍し、著作に関する任務をほとんど任されるほどになった。学者としては胡渭万斯同閻若璩黄儀顧祖禹などと往来する。

康熙26年(1687年)に都御史、康熙27年(1688年)に会試正考官と刑部尚書となるなど毎年のように昇進していたが、この頃から諸臣・皇子らが党派をつくり争い合う風潮があり、徐乾学もまた客を好み党をかまえ、高士奇王鴻緒などの姻戚・友人たちの首魁しゅかいとなり、弟である徐元文徐秉義とともに崑山三徐とも称された。家人や問客のうちに奸利かんりを働く者があり、御史の郭琇は「徐乾学は党を結び、巨額の賄賂を収めている」として弾劾し、副都御史の許三礼は「乾学律身不厳」と上疏じょうそした。朋党同士の攻撃として、誇張されているとしても必ずしも虚言だけとも考えられない。

そのため、刑部尚書を辞して修書の総裁のみに就き、康熙28年(1689年)に郷里に戻り著述に専念する。文章学問に熟達していることを理由に、康熙帝がふたたび召したときにはすでに没していた。遺言として、編纂されていた『大清一統志』を上納し、死後ではあるが、元の官職に復された。

編纂[編集]

  • 『明史』(奉勅)
  • 『大清会典』(奉勅)
  • 『大清一統志』(奉勅)
  • 『世祖章皇帝聖訓』(奉勅)(1687年
  • 『太宗文皇帝聖訓』(奉勅)(1687年)
  • 『通志堂経解』(1680年
  • 『鑒古輯覧』
  • 『古文淵鑒』(64巻)

著述[編集]

  • 『澹園集』(30巻)
  • 『憺園集』(36巻)
  • 『読礼通考』(120巻)
  • 『文集』(24巻)
  • 『外集』(4巻)
  • 『虞浦集』
  • 『詞館集』
  • 『碧山集』
  • 『歴代宗廟考』
  • 『輿地備考』
  • 『輿地紀要』
  • 『輿地志』
  • 『資治通鑑後編』(184巻)
  • 『伝是楼宋元板書目』(1巻)
  • 『伝是楼書目』(8巻)
  • 『教習堂條約』(1巻)

参考文献[編集]

  • 『清史稿列伝』巻58
  • 『清史列伝』巻10
  • 『国朝先正事略』巻9

外部リンク[編集]