後光厳天皇

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後光厳天皇
後光厳天皇像(宮内庁蔵『天子摂関御影』より)

即位礼 1354年1月21日文和2年12月27日
大嘗祭 1354年11月30日(文和3年11月16日
元号 観応
文和
延文
康安
貞治
応安
時代 室町時代南北朝時代
関白 二条良基九条経教近衛道嗣→二条良基→鷹司冬通二条師良[1]
征夷大将軍 足利尊氏義詮義満
先代 崇光天皇
次代 後円融天皇

誕生 1338年3月23日建武5年3月2日
崩御 1374年3月12日応安7年1月29日
柳原殿[2]
大喪儀 1374年3月15日応安7年2月2日
陵所 深草北陵
追号 後光厳院
(後光厳天皇)
1374年3月15日応安7年2月2日)追号勅定
弥仁
別称 光融(法名)[3]
称号

二宮・三宮[4]

芝宮(しばのみや)[5]
元服 1352年9月25日観応3年8月17日[6]
父親 光厳天皇
母親 正親町三条秀子
典侍 広橋仲子
子女 緒仁親王(後円融天皇
ほか(后妃・皇子女節参照)
皇居 土御門東洞院殿
親署 後光厳天皇の親署

室町幕府第3代将軍足利義満の名付け親にあたる[7]
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後光厳天皇(ごこうごんてんのう、旧字体後光嚴天皇1338年3月23日建武5年3月2日〉- 1374年3月12日応安7年1月29日[8])は、日本北朝第4代天皇[注 1](在位:1352年9月25日観応3年8月17日〉- 1371年4月9日応安4年3月23日〉)[10]。諱は弥仁(いやひと、旧字体彌仁)。

光厳天皇上皇)の第二皇子、もしくは第三皇子[4][注 2]。母は正親町三条公秀の女の正親町三条秀子(陽禄門院)[16]

正平一統で北朝が一時的に解消した後、急遽、三種の神器太上天皇詔宣も無くして践祚。在位中、南朝に三度も京都を追われる。兄崇光上皇との皇位継承問題では、室町幕府公卿たちの支持を得て、自身の皇子への譲位に成功した。

概要[編集]

建武5年(1338年)に、北朝の治天の君である光厳上皇の皇子として誕生した。しかし、皇位継承には縁がなく、将来は妙法院門跡に入ることが決まっていた。(→#幼少期

ところが、正平一統によって北朝が解消したのち、室町幕府との和平を破棄した南朝は、北朝の主だった皇族を拉致した。三宮(後光厳)は拉致を免れたため、幕府の申入れにより急遽践祚することとなった。この際、三種の神器は一統の際に南朝によって接収されていたため継承できず、さらに神器が無い場合の践祚に必要な太上天皇の詔宣も無かったため、継体天皇の先例が引照された。(→#践祚と北朝再建

在位中は、財政難・人材難に喘ぎ、政務の停滞に直面した。また、度重なる南朝の京都侵攻によって三度も都を追われ、さらに、帰京した父の光厳法皇と持明院統の伝統を巡って対立した。そうした中でも、正平一統以降滞っていた朝儀を再興させ、二度にわたって勅撰和歌集の撰集を行わせた。二条良基による『菟玖波集』も、後光厳の准勅撰連歌集にあたる。(→#治世

在位は20年近くに及び、やがて後光厳は自身の皇子への譲位を志すようになる。兄崇光上皇が自身の皇子栄仁親王の皇位継承を主張したため、後光厳と崇光との間で対立が生じた。そこで後光厳は幕府の支持を取り付けて、応安4年(1371年)3月に皇子緒仁親王(後円融天皇)への譲位を強行する。(→#譲位と皇位継承問題

譲位後は治天の君として院政を敷き、公家訴訟法の『応安法』を成立させるなど、政務への意欲的な姿勢を示した。しかし、興福寺衆徒の嗷訴が起こると、後光厳の側近らは放氏に処され、新帝の即位礼も延期となってしまう。後光厳は自ら解決を図ろうとし、衆徒と激しく対立した。そうしたなか、後光厳は疱瘡を患い、応安7年(1374年)1月に崩御。宝算37。(→#失意の崩御#後光厳院政

葬儀は同年2月2日泉涌寺にて行われ、これ以降、幕末までの天皇家の葬儀は基本的に泉涌寺で行われることとなる。(→#葬礼・追号

生涯[編集]

※和暦を原則としつつ、()の中に西暦年を併記した。なお、特段必要の無い場合南朝元号は併記せず、北朝元号を使用した。
※「後光厳天皇」は没後に定められた称号であるが、生前の記述においても、在位中は「後光厳天皇」、譲位後は「後光厳上皇」とする。
※特記する必要のない場合や登場二回目以降の場合は、後光厳天皇→後光厳、二条良基→良基といったように人物名を略式にした。
※注意がない場合、年齢は数え年である。

幼少期[編集]

建武5年(1338年3月2日、光厳上皇の皇子として誕生する[17]。母は正親町三条秀子で、興仁親王(のちの崇光天皇)の同母弟。光厳上皇の正妃である寿子内親王(徽安門院)を准母とした[16]

出生直後から持明院統の重臣である日野資名に預けられ、資名の薨去後は、安居院[注 3]の地にて、資名の後室芝禅尼に養育される[5]。二宮、ないし三宮と称された[4][注 4]。光厳上皇は従弟である直仁親王[注 5]への皇位継承を計画していたため、将来的に三宮は妙法院へ入室することになっていた[22]

践祚と北朝再建[編集]

後光厳天皇の内裏土御門東洞院殿(画像は京都御所

観応2年(南朝:正平6年、1351年)10月、北朝を擁する室町幕府初代将軍足利尊氏が南朝に帰順し、11月7日南朝後村上天皇によって兄崇光天皇廃位され、父光厳上皇の院政が停止された[23]。(正平一統)しかし、翌正平7年(1352年)閏2月19日、南朝は和平を破棄して京都に侵攻。正平一統は破綻し、足利義詮(のちの幕府第2代将軍)は近江国へ敗走した[24]。3月15日に義詮は京都を奪還するものの、南朝方は撤退する際に、北朝の光厳上皇(父)・光明上皇(叔父)・崇光上皇(兄)・直仁親王(兄)を連行し、その後賀名生に幽閉した[25][26]。4月2日には三宮の連行も噂されたが、このときは三宮の住む上京に多数の武士が集結し、三宮は難を逃れた[5]

京都奪還戦の混乱により、北朝の消滅後もわずかながら続けられていた神事も中止され、都ではほぼ全ての朝儀が中止された[27]。その有様は「ただ戎狄の国のごとし」「蛮夷の国たるか」と嘆かれるほどであった[27]。長期間の天皇の空位による人事の停滞も深刻であり、朝廷・幕府・寺社の要職は軒並み空席となった[28]大和国では、春日山の山木が枯れ果てて人々の不安を搔き立てたが、神楽を行って神慮を宥めようにも、藤氏長者が空席でできなかったという[29]。また、幕府による人事が寺社側から受け入れられないなどの事態も発生しており、いまだ旧直義勢力が跋扈するなかで、幕府は天皇対天皇の対立構造の必要性を痛感することとなった[30]

6月3日、義詮の意を受けた佐々木道誉は、北朝の重臣である勧修寺経顕に、三宮の践祚と、三宮の祖母である広義門院の執政を申し入れた[31]。広義門院は、義詮が三上皇と廃太子を南朝に渡したことで恨みに思い要請を蹴ったが[32]、幕府の度重なる説得で渋々引き受けた[33]。6月25日、広義門院は幕府の支持を受けていた二条良基関白に任命し[34]、27日には、令旨を出して官位元号を正平一統以前に戻した[35]

三宮の践祚方法に関しては様々議論が交わされ、花山天皇出家の際の先例をもとに賀名生にいる上皇の「如在の儀」として譲国詔宣を作成するという意見もあったが、洞院公賢が先例として相応しくないと退けた[36]。結局、前関白一条経通が進言した、廷臣に擁立されて即位した古代の継体天皇の先例(群臣義立)を引照することになった[注 6][37][38]。践祚の直前に行われた元服の儀にて、三宮の諱は「弥仁」(いやひと)に定まり、観応3年(1352年)8月17日、弥仁は土御門東洞院殿践祚した[6][注 7]。(以下「後光厳天皇」とする)三種の神器は正平一統の際に南朝に渡してしまったため揃わなかった[41]。しかし、神鏡の入っていた唐櫃が、光厳らが初め幽閉されていた石清水八幡宮に取り残されており、これを神鏡の代用とした(『小槻匡遠宿禰記』)[42][43][注 8]。神器無しで即位した後光厳はこれ以後、不完全な天皇というコンプレックスがつきまとった[45]。神器無しでの践祚に不安を隠せない新帝に対し二条良基は、「天照太神を鏡に、足利尊氏を剣に、不肖良基を璽と思し召せ」と進言したと伝えられている[46]

践祚直後に後光厳は和歌の修練を開始し[47]、文和元年(1352年)11月15日には読書始が執り行われた[48]。同日、尊円法親王から『入木抄』を進ぜられている[49]

治世[編集]

岐阜県揖斐川町瑞巌寺。この近辺に小島行幸時の行宮があったとされる[50]

広義門院には男性の治天の君のような指導力を望めず、後見となる父院・兄院も南朝に幽閉されているため、雑訴を始めとする北朝の政務は停滞し、形式的に後光厳が親政を始めるにも2年を要した[51]。さらに、再建された北朝は、正平一統以前の北朝とは比較にならないほど財政難・人材難にあえいだ[52]。文和元年(1352年)から延文元年(1356年)の5年間の年中行事(朝儀)に参加した公卿は、二条良基久我通相万里小路仲房日野時光広橋兼綱らをはじめとした19名に過ぎなかった[53]洞院公賢は「およそ践祚の儀ありと雖も、政道と云ひ、公務と云ひ、執行するに人無し、天下滅亡、天を尤めず(とがめず)、人を怨まず」と嘆いている[51]

文和2年(1353年)夏、南朝軍は京都に迫り、6月13日、南朝軍に大敗した足利義詮に伴われて後光厳は美濃国小島に行幸した[54]。この際供奉したのは西園寺実俊万里小路仲房鷲尾隆右日野時光らだけであったが[55]、後に良基と近衛道嗣も駆けつけた[56]。南朝は後光厳を「偽主」「偽朝」と呼んで後光厳践祚に出仕した者と後光厳の小島行幸の供奉者を処罰したが[57]、一方の後光厳も、供奉しなかった廷臣の所領を没収している[58]。小島での滞在中、駆けつけた良基に「これまで参りぬる上は、床をならべし契り、さらにかはり侍らじ」と言って関白職を安堵した[56]。7月20日には、伊勢神宮に宸翰の願文を奉納している[59]。7月26日に義詮が京都を奪還し、9月21日に御所に還幸した[60]

帰京後の10月28日に鬼間議定を始め、12月27日に即位礼を挙行し、翌文和3年(1354年)11月16日に大嘗祭を挙行する[61]。同年12月にまたもや南朝軍が京都に迫り、24日に後光厳は義詮に伴われて近江国武佐寺に逃れたが、翌文和4年(1355年)3月28日に御所に還幸した[62]

延文元年(1356年)6月11日、18番目の勅撰和歌集にあたる『新千載和歌集』の撰進を二条為定に命じた[63]。足利尊氏の執奏であり、武家執奏による下命は史上初のことであった[63]。延文2年(1357年)2月に、光厳法皇・崇光上皇・直仁親王が帰京したが、とりわけ光厳法皇は後光厳と頗る不仲となった[64]。法皇は『新千載和歌集』の企画に強い不快の意を示し、入集を拒否する[65]。この不仲の背景には、後光厳が持明院統の伝統歌風である京極派から二条派に鞍替えしたことや、同じく持明院統の伝統である琵琶の修得を避けてを修得したことが指摘されている[66][注 9]

同年閏7月11日、『菟玖波集』を史上初の准勅撰連歌集とする。これは尊氏の執奏であったが、佐々木道誉の働きであったという[69]。同年12月にまたもや南朝軍が迫ったことで近江国に逃れたが[70]、翌年2月10日には帰京した[71]。なお、帰京以前の1月17日にも、伊勢神宮に願文を納め天下泰平を祈願している[72]

南朝の有力な勢力であった大内氏山名氏が室町幕府に帰順し、戦況が沈静化した貞治年間(1362年 - 1368年)の前後、後光厳親政においては「公事興行」の機運が高まった[53]康安元年(1361年)には15年ぶりとなる最勝講が挙行され[53]、貞治2年(1363年)2月には、在位中二度目の勅撰集『新拾遺和歌集』の編纂が下命された[73]。5月11日には、内裏にて在位初の晴儀蹴鞠が行われ[74]、10月29日には、良基の尽力により中殿作文が開催される[74][注 10]。貞治3年(1364年)12月に春日神木が入洛し、3年にわたって在洛したことで一時北朝の朝儀が停滞してしまったが[75]、貞治5年(1366年)8月に帰座[76]。貞治6年(1367年)3月29日に中殿歌会が行われた[77]。この会において、史上初となる将軍(義詮)の参加が実現した[77]。後光厳の御製は次のものである[77]

 花多春友はなたしゅんのとも

さきにほふ 雲井の花の もとえだに 百世ももよの春を なほや契らん

応安元年(1368年)には、「希代の御興善」と評される後伏見院三十三回忌宮中懺法講が行われる[67]。応安3年(1370年)7月3日に行われた光厳院七回忌の宸筆法華八講も、略儀にせずつつがなく行われ[78]、12月22日には京官除目が行われた[79][注 11]。貞治年間前後の「公事興行」の気運のなかで、年中行事に参加する公卿の人数も徐々に回復していった[53]

北朝の年中行事に参加した公卿の人数[53]
年代 人数
貞和3年(1347年) - 観応2年(1351年 44
文和元年(1352年) - 延元元年(1356年 19
延文2年(1357年) - 康安元年(1361年 26
貞治元年(1362年) - 貞治5年(1366年 28
貞治6年(1367年) - 応安4年(1371年 40

この「公事興行」について、後光厳自身も「公務興行の時分」と述べ、『太平記』においても、「総じてこの君御治天の間、よろず絶えたるを継ぎ廃れたるを興しおわします叡慮なり」と評価されている[53]。日本中世史研究者の松永和浩は、「後光厳の求心力強化、『群臣義立』の実体化という課題への、一つの回答であった」としている[53]

譲位と皇位継承問題[編集]

やがて、後光厳は第二皇子への譲位を志すようになる。皇位継承では、兄崇光上皇の皇子栄仁が応安元年(1368年)1月21日に親王宣下されたのに対し、後光厳の第二皇子はいまだ親王宣下を受けていないなど出遅れていた[80]。応安3年、後光厳は反撃に動き出した[81]

応安3年(1370年)8月に後光厳は、最も信頼する側近の日野忠光を派遣して、第二皇子への譲位を3代将軍足利義満を監督する管領細川頼之に諮問した。結果は後光厳が「心中歓喜」(『後光厳院宸記』)するものとなった[82]。これを受け崇光は、側近の日野教光を幕府に派遣したが、幕府は方針を変えず、「先立ちて聖断たるべきの由、奏聞す。武家更に是非を申しがたし」(先だって「(天皇の)お考えのままにされてください」と申し上げました。こちらからこれ以上何か申すことはありません)と回答した[82]。同年9月18日に、後光厳は良基にも譲位の件を相談し、支持を得た[83]。同月24日に崇光は後光厳に弁明しようと勅使を派遣しようとしたが、勅使を依頼された良基と勧修寺経顕はどちらも固辞した[84]。同年11月9日に、後光厳は密に宸筆の願文を春日・石清水・賀茂・日吉・北野の五社に納めて、譲位及び立太子を祈願している[85]

そして、応安4年(1371年3月21日、第二皇子は「緒仁」(おひと)という諱で親王宣下され、3月23日、後光厳は緒仁親王へ譲位した(後円融天皇[82]。同時に後光厳上皇は院政を敷く[86]

後光厳と崇光ははじめは仲が良かったと伝わるが、「たちまち御中あしくなりて、近習の臣下も心々に奉公ひきわかる」(『椿葉記』)と、この一件で後光厳と崇光は絶交状態になったという[87]

失意の崩御[編集]

春日神木(春日権現験記)

念願の院政を始めた後光厳は、意欲的に政務に取り組んだ[88]。故柳原資明柳原殿仙洞御所に定め[2]、同年閏3月6日に院庁始、28日には院評定始文殿始を執り行った[89]。同月21日に行われた御幸始は、「威儀厳重、殆ど先規を超過せしむるか、見物の桟敷・立車等、墻壁の如し、雑人群集し、紅塵面に満つ」と称されるほどの盛儀であった[89]。後円融天皇の即位礼は同年12月19日に挙行されることになった[90]

ところが、即位礼目前の12月2日、興福寺の衆徒が春日神木を捧げて入洛し、一乗院門主の実玄と大乗院門主の教信の追放・配流を要求してきた[91]。後光厳は迅速に対応し、同月5日に両門主の所領を停止させる院宣を出して、翌年1月22日には両門主の流罪を命じている[92][93]。ところがその最中、年内に即位礼を挙行したい後光厳は、神木を洛外の吉田神社大原野神社に遷そうとした[94]。衆徒側はこれを不逞として、後光厳の側近である柳原忠光広橋仲光放氏処分とする[94]。さらには中御門宣方万里小路嗣房も放氏となった[94][注 12]。衆徒の要求は拡大してゆき、公武間の仲介役を担って権勢を振るっていた三宝院光済覚王院宋縁遠流を要求する。この要求を幕府が拒否したため、交渉は暗礁に乗り上げた[97]。幕府はあくまで朝廷側の問題として介入を憚り、後光厳は良基に交渉を任せたが、一筋縄ではいかない衆徒との交渉は難航し、要求はさらに拡大してゆく[98]

応安6年(1373年)7月15日、後光厳は自ら交渉に乗り出し、衆徒の広がり過ぎた要求を整理するため、衆徒の上層部である僧綱を召した。ところが、衆徒の下層部にあたる六方衆たちは激しく抵抗してこれを妨害し、対する後光厳は何としてでも僧綱を召し出すように厳命した[99]。8月6日、六方衆は前代未聞である摂関経験者良基の放氏を行うまでに至る[100]。神木の在洛によって後円融天皇の即位礼は延期を重ね、ついに前例のない践祚の翌々年以降にずれ込むことが決まってしまった[101]。そして、後光厳は息子の晴れ舞台を見届けられぬまま、応安7年(1374年)1月に疱瘡に罹り、29日寅の刻に崩御した[102]。宝算37[3][102]。世間では春日明神の神罰と噂されたという[103][93]。なお、後円融天皇の即位礼は足掛け4年を経て、神木帰座後の同年12月28日に挙行された[104]

政治[編集]

後光厳親政[編集]

後光厳天皇の綸旨(東寺百合文書)

光厳院政では訴訟制度が整えられ、「王朝の訴訟制度」の「頂点」とも評価されているが[105]、後光厳も文和4年(1355年)ごろより「政道興行」へ本格的に取り組むようになった[106]

議定(院政では院評定[107]、雑訴沙汰(雑訴議定)[108]記録所(院政では文殿)を置いた[109]。記録所では、光厳院政と同じく庭中も開かれた[110]。議定では、神事や遷宮、高麗からの異国牒状などの審議も行われている[111]森茂暁は王朝政権の制度的根幹はなおも維持されたとしている[112]

しかし、後光厳天皇の践祚・即位事情、広義門院・光厳法皇・崇光上皇の存在、室町幕府の躍進など、光厳院政以上に様々な制約がつきまとった[112]。雑訴沙汰は6日・16日・26日の月3回と、光厳院政と同じ頻度で開催されているが、記録所庭中も同日に開催されるようになっており、中世史研究者の美川圭は、訴訟機関としては統合・縮小されたとしている[113]。雑訴沙汰・庭中・越訴は延期・中止を繰り返し、訴訟を受理・審議する伝奏や記録所寄人の懈怠によって開廷できないことも多かった[114]。森茂暁は、後光厳親政の政務運営を窺うことのできる断片的な史料から見ても、「後光厳親政の訴訟機構が円滑に運営されたとは到底いえることではない」「政道は確実に廃退しつつあった」としている[114]。後光厳自身も、良基に対して次のように漏らしている[115]

議奏に人無き事、この間度々申しうけたまはり候ひ畢んぬ。宣明長光逝去已後、大略諸事をさしをかるるの様に候

後光厳院政[編集]

後光厳院政においては、御前評定、雑訴沙汰、文殿が置かれた[116]。後光厳院政は春日神木の入洛などの著しい制約を受け、さらに後光厳が若くして崩御したことでわずか3年しか続かなかった[117]。また、親政においてすでに「今日記録所庭中雑訴沙汰等無之、依無伝奏、今季于今不被行之」(『師守記』貞治6年9月16日条)と批判されるほどの有様であり[118]、形式的には上述の機構が置かれているが、実態としては、文殿の活動はもはや確認できず、御前評定も殆ど開かれなくなっていたという[113]

しかし、後光厳は、応安4年(1371年)9月26日に政道興行を審議させるなど、政務の遂行に意欲を見せていた[119]。また、『延慶法』『文保法』『暦応雑訴法』などを継承した『応安法』を成立させるなどしている[120]

森茂暁は、後光厳院政の性質を、やや小型化しつつも光厳院政の伝統を受け継ぎ、法制定の上では伏見院政・後伏見院政を継承したものであった、としている[121]

人物[編集]

伝後光厳天皇宸翰
  • 好学で、東坊城長綱から『史記』『後漢書』『貞観政要』などを学んでいる。和歌にも秀で、勅撰集には45首撰ばれている[122]
  • 南北朝時代は天皇や皇族を中心に優れた能書家を輩出した時期であったが、後光厳天皇も能書家であり、その中でも傑出した一人として数えられている[123]
  • 疫病の蔓延に際しては、般若心経を書写するなどしている[124]
  • 国文学者の小川剛生によれば、後光厳は自分の意志を明確に示すことが少なく、関白の良基に委ねる傾向が強かったという[125]
  • 父光厳法皇とは不仲であったが、崩御の際後光厳はその死を深く悼み諒闇を行った[126]。なお、光厳法皇は後光厳と不仲でありながら、晩年に定めた相続では後光厳の子孫も皇位継承してよいと認めていた[127]
  • 兄崇光上皇とは一時絶交状態に陥ったが、関係が絶えたわけではなかった。応安5年(1372年)7月に行われた光厳院の年忌法要では、両者が大光明寺に集い、ともに御影に焼香を捧げた[128]。また、外宮造営にあたって長講堂領へ臨時課税がなされようとしたとき、両者は盛んに書状を取り交わしている[128]

御製[編集]

なほざりに 思ふ故かと 立ち帰り 治まらぬ世を 心にぞ問ふ[129][注 13](大意:いい加減に考えていたからだろうか。そのように振り返って、なぜこの世の中が治まっていないのかと、この心に問うのだ。)
後光厳天皇、『新千載和歌集』

主な著作[編集]

系譜[編集]

後光厳天皇の系譜[135]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 第89代 後深草天皇
 
 
 
 
 
 
 
8. 第92代 伏見天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 洞院
 
 
 
 
 
 
 
4. 第93代 後伏見天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 五辻経氏
 
 
 
 
 
 
 
9. 五辻経子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 北朝初代 光厳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 西園寺実兼
 
 
 
 
 
 
 
10. 西園寺公衡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 中院顕子
 
 
 
 
 
 
 
5. 西園寺寧子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 藤原光保
 
 
 
 
 
 
 
11. 藤原兼子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 北朝4代 後光厳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 正親町三条公貫
 
 
 
 
 
 
 
12. 正親町三条実躬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 吉田為経
 
 
 
 
 
 
 
6. 正親町三条公秀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 聖海高倉天皇皇孫)
 
 
 
 
 
 
 
13. 聖海
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 正親町三条秀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図(皇統譜)[編集]

持明院統
北朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
南朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
96 後醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光厳天皇 北1
 
光明天皇 北2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
97 後村上天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
崇光天皇 北3
 
 
 
 
 
後光厳天皇 北4
 
 
 
 
98 長慶天皇
 
99 後亀山天皇
 
惟成親王
護聖院宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(伏見宮)栄仁親王
(初代伏見宮)
 
 
 
 
 
後円融天皇 北5
 
 
 
 
(不詳)
玉川宮家
 
小倉宮恒敦
小倉宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(伏見宮)貞成親王
(後崇光院)
 
 
 
 
 
100 後小松天皇 北6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
102 後花園天皇
 
貞常親王
伏見宮家
 
101 称光天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


系図(本朝皇胤紹運録)[編集]

持明院統
北朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
南朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
95 後醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
96 光厳天皇
 
97 光明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後村上天皇 義良親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
99 後光厳天皇
 
 
 
 
 
98 崇光天皇
 
 
長慶天皇 寛成親王
 
後亀山天皇 熙成王
 
惟成親王
護聖院宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
100 後円融天皇
 
 
 
 
 
(伏見宮)栄仁親王
(初代伏見宮)
 
 
(不詳)
玉川宮家
 
小倉宮恒敦
小倉宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
101 後小松天皇
 
 
 
 
 
(伏見宮)貞成親王
(後崇光院)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
103 後花園天皇
(貞成親王第一王子)
 
102 称光天皇
 
貞常親王
伏見宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


后妃・皇子女[編集]

以下、主に(図書寮(3) 1947, pp. 749–878)による。

在位中の元号[編集]

  • 観応 - 3年8月17日(1352年9月25日)
  • 文和 - 5年3月28日(1356年4月29日)
  • 延文 - 6年3月29日(1361年5月4日)
  • 康安 - 2年9月23日(1362年10月11日)
  • 貞治 - 7年2月18日(1368年3月7日)
  • 応安 - 4年3月23日(1371年4月9日)

葬礼・追号[編集]

ウィキペディア「泉涌寺」より。
泉涌寺

後光厳は生前、泉涌寺21代の竹岩聖皐に深く帰依しており、崩御直前の出家では竹岩聖皐が戒師を勤めた[2]。入棺も、竹岩聖皐並びに、出家の際に剃手を勤めた安楽光院見月房曇浄による「一向沙汰」によって行われた[2]

葬儀は、応安7年(1374年)2月2日夜に[136]、竹岩聖皐の主導で泉涌寺にて行われた[137]。慣例に則り、夜中に玉体が運ばれたが、京都の民衆は挙って葬列を見学したという[138]。葬儀には、院庁の職員のほか、治子内親王行助法親王永助法親王覚叡法親王道円法親王堯仁法親王ら各皇子女、日野宣子広橋仲子橘繁子ら後宮の女房らも参加した[138]

同日、遺詔奏廃朝警固固関が行われ、追号は「後光厳院」に定められた[139]。理由を明示した史料は無いものの、村田正志は、光厳天皇の正統な後継者という含意があるとしている[140]

泉涌寺で天皇経験者の葬儀が行われるのは鎌倉時代四条天皇以来であり[137]、後光厳天皇の葬儀以降、天皇家の葬儀は泉涌寺、追善仏事は安楽光院という形式に定まった[141][注 16]。泉涌寺は天皇家の菩提寺を意味する「御寺」の称号を得ることになり[143]、江戸時代末期まで天皇家の葬儀を担うこととなる[144]

陵・霊廟[編集]

深草北陵

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)に治定されている[145]。宮内庁上の形式は方形堂。また、泉涌寺安楽光院天龍寺(金剛院)・四天王寺高野山などにも分骨されている[139]。泉涌寺別院雲龍院にある分骨所が、「後光厳天皇分骨所」として治定されている[146]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 明治時代まで一般的であった『本朝皇胤紹運録』による天皇代数では、後光厳天皇は99代天皇[9]
  2. ^ 花園天皇正親町実子の子である直仁親王は、光厳上皇の猶子として崇光天皇の皇太子となったが、光厳上皇は直仁親王を自身の実の子であると告白していた[11]。実際に光厳上皇と正親町実子との間にできた皇子とみられる[12][13][14]。建武3年(1336年)出生か[15]
  3. ^ 安居院(あぐい)は、京都市上京区大宮通上立売北にあった寺院[18]。京都市上京区には芝大宮町芝薬師町芝之町などの町名が存在し、「芝」はかなり広範囲の地域を指すものであったと考えられる[19]
  4. ^ 践祚直前では『園太暦』や『小槻匡遠宿禰記』などで「三宮」と称されていること[20]、建武3年(1336年)出生とみられる直仁親王が現在では光厳上皇の皇子であると考えられていることを考慮して、本項では元服までの後光厳天皇を三宮(さんのみや)と称す。
  5. ^ 光厳は幼少より花園から学問を受けていたため、形としてはその皇子である直仁親王の立太子を行うことで花園への報恩を果たそうとしたという説や[12]、直仁親王の母が室町将軍家の親戚であることを利用したという説がある[21]
  6. ^ 西漢孝文皇帝」の故実も同時に引照されている[36]
  7. ^ 村田正志は広義門院の院宣で践祚したとしているが[39]今谷明は、院宣、すなわち「伝国詔宣」(譲国詔宣)は出されず、あくまで継体天皇の先例に基づいた践祚としている[40]
  8. ^ 後鳥羽天皇が「年料辛櫃」(もしくは「大蔵省辛櫃」)を神鏡の代用とした「寿永例」による[44]
  9. ^ なお、足利尊氏も笙を嗜んでおり、後光厳の師も尊氏と同じであった。このことは後光厳が笙を選択した理由の一つとみられる[67][68]
  10. ^ 清涼殿にて開催される漢詩の会(中殿作文)と和歌の会(中殿歌会)を合わせて中殿御会という。これは代始めの儀式の一つであり、この儀式を以って以降内裏で開かれる漢詩会・歌会は公宴となる。幼帝の多い中世においては稀であった[74]
  11. ^ 後光厳朝初[53]
  12. ^ 柳原忠光は院執権、広橋仲光は左少弁、万里小路嗣房は左大弁、中御門宣方は左中弁であり、後光厳上皇の院司であった[95]。彼らは後光厳上皇の信頼の厚い有能な側近であり、彼らの放氏は後光厳院政の手足を奪うに等しかったとされる[95][96]
  13. ^ 『後光厳院御百首』にも収められている。それによれば題は「述懐」[130]
  14. ^ ほかに、中納言典侍・三位局・梅町殿・北山殿・南御所などの別称がある。
  15. ^ 死因については、『兼宣公記』『妙法院在住親王伝』『仁和寺年代紀』などの史料に自害したという記述がみられる。
  16. ^ 文明8年(1476年)に安楽光院が焼失したのちは、主に般舟三昧院が追善仏事を行うようになる[142]

出典[編集]

  1. ^ 樋口 2021, p. 250.
  2. ^ a b c d 久水 2020, p. 112.
  3. ^ a b 図書寮(3) 1947, p. 738.
  4. ^ a b c 図書寮 1947, p. 2.
  5. ^ a b c 小川 2020, p. 93.
  6. ^ a b 図書寮 1947, p. 5.
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  13. ^ 深津 2014, p. 140.
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  15. ^ 深津 2014, p. 262.
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  23. ^ 小川 2020, pp. 85–86.
  24. ^ 小川 2020, p. 91.
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  33. ^ 今谷 2019, p. 162.
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  37. ^ 林屋 1975, pp. 112–114.
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  39. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『後光厳天皇』」コトバンクより。2024年3月18日閲覧。
  40. ^ 今谷 2019, pp. 164, 169.
  41. ^ 今谷 2019, pp. 153, 158–159.
  42. ^ 深津 2014, p. 203.
  43. ^ 村田正志『南北朝史論』1971、p.71。
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  146. ^ 宮内省諸陵寮 編『陵墓要覧 昭和9年11月調』1934,p.33。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

後光厳天皇

1338年3月23日 - 1374年3月12日

日本の皇室
先代
崇光天皇
(興仁)
皇位
北朝4代天皇

1352年9月25日 - 1371年4月9日
観応3年8月17日 - 応安4年3月23日
次代
後円融天皇
(緒仁)