當麻寺

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當麻寺(当麻寺)
Taimadera hondo.jpg
本堂
所在地 奈良県葛城市當麻1263
位置 北緯34度30分57.91秒
東経135度41分40.69秒
山号 二上山
宗派 高野山真言宗浄土宗
本尊 当麻曼荼羅
創建年 伝・推古天皇20年(612年
開基 伝・麻呂古王
札所等 新西国三十三箇所11番
関西花の寺二十五霊場21番(西南院)
仏塔古寺十八尊第8番(西南院)
大和十三仏霊場6番(中之坊)
大和七福八宝めぐり(中之坊)
法然上人二十五霊跡第9番(奥院)
神仏霊場巡拝の道 第32番
文化財 東塔、西塔、曼荼羅堂、塑造弥勒仏坐像ほか(国宝)
金堂、乾漆四天王立像、木造阿弥陀如来坐像ほか(重要文化財)
中之坊庭園(名勝・史跡)
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當麻寺当麻寺、たいまでら)は、奈良県葛城市にある飛鳥時代創建の寺院。法号は「禅林寺」。山号は「二上山」[1]。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗浄土宗の並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。

西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。

目次

[編集] 歴史

中将姫の蓮糸曼荼羅(当麻曼荼羅)の伝説で知られる當麻寺は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置する。當麻寺がある奈良県葛城市当麻地区(旧・北葛城郡當麻町)は、奈良盆地の西端、大阪府に接する位置にある。この地にある二上山は、その名のとおり、ラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山桜井市)と相対する位置にある。二上山は、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、者のがおもむく先であると考えられた特別な山であった。

二上山の南を通る竹内(たけのうち)街道は、河内と大和を結ぶ主要な交通路で、古代には中国大陸や朝鮮半島から渡来の文物が難波(大阪)の港から都へと運ばれるルートでもあった。平安時代の浄土教僧で『往生要集』の著者である恵心僧都源信はこの地方の出身である。また、当麻の地は折口信夫(釈迢空)の幻想的な小説『死者の書』の舞台としても知られる。

当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があるが、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推される。

當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族「当麻氏」の氏寺として建てられたものである。寺には仏像、梵鐘、石灯籠など、いずれも奈良時代前期(7世紀後半)にさかのぼる遺物があり、寺の草創はこの頃と推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。

当麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になって、ようやく各種書物や記録に草創縁起が見られるようになる。その早い例は、12世紀末、鎌倉時代初期の建久2年(1191年)に成立した『建久御巡礼記』という書物である。これは、興福寺の僧・実叡が大和の著名寺社を巡礼した際の記録である。

當麻寺について同書には、聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊とする「禅林寺」として草創したものであり、その孫の当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇10年(681年)に役行者(えんのぎょうじゃ)ゆかりの地である現在地に移したものだ、とある。

一方、『上宮太子拾遺記』(嘉禎3年・1237年)所引の『当麻寺縁起』によれば、當麻寺は推古天皇20年(612年)、麻呂古王が救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建したもので、当初は今の當麻寺の南方の味曽路という場所にあり、692年に現在地に移築されたとする。なお、万宝蔵院の旧所在地については河内国山田郷(大阪府交野市あたり)とする史料もある。

平安時代末期、いわゆる末法思想の普及に伴って、来世に阿弥陀如来の西方極楽浄土に生まれ変わろうとする信仰が広がり、阿弥陀堂が盛んに建立された。この頃から當麻寺は阿弥陀如来の浄土を描いた「当麻曼荼羅」を安置する寺として信仰を集めるようになる。中でも浄土宗西山派の祖・証空は、貞応2年(1223年)に『当麻曼荼羅註』を著し、当麻曼荼羅の写しを十数本制作し諸国に安置して、当麻曼荼羅の普及に貢献した。

[編集] 当麻曼荼羅と中将姫伝説

当麻氏の氏寺として始まった當麻寺は、中世以降は中将姫伝説と当麻曼荼羅の寺として知られるようになる。「当麻曼荼羅」は、学術的には「阿弥陀浄土変相図」と称するもので(「変相」とは浄土のありさまを絵画や彫刻として視覚化したもの)、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土のありさまを描いたものであり、唐の高僧・善導による『観無量寿経』の解釈書『観経四帖疏』に基づいて作画されたものとされている。なお、当麻曼荼羅の内容については別項「当麻曼荼羅」を参照。

当麻曼荼羅の原本については、中将姫という女性がの糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある。中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性の存在は複数想定されている。

當麻寺本堂(曼荼羅堂)に現存する、曼荼羅を掛けるための厨子は奈良時代末期から平安時代初期の制作で、当麻曼荼羅の原本は遅くともこの時代には當麻寺に安置されていたとみられる。しかしながら、曼荼羅の伝来や由緒にかかわる資料は平安時代の記録には見当たらず、曼荼羅の「縁起」が形づくられていくのは鎌倉時代に入ってからである。先述の『建久御巡礼記』によれば、当麻曼荼羅はヨコハギ(横佩)大納言という人物の娘の願により化人(けにん、観音菩薩の化身か)が一夜で織り上げたものであり、それは天平宝字7年(763年)のことであったという。12世紀末のこの時点では「中将姫」という名はまだ登場していない。13世紀半ばの『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう)ではヨコハギ大納言の名は藤原豊成とされており、以降、父の名は右大臣藤原豊成、娘の名は中将姫として定着していく。中将姫の伝承は中世から近世にかけてさまざまに脚色されて、浄瑠璃歌舞伎などにも取り上げられるようになり、しだいに「継子いじめ」の話に変質していく。話の筋は要約すると次のようなものである。

今は昔、藤原鎌足の子孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色の糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。

この話はよほど人気があったようで、世阿弥近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎の題材ともなった。

当麻曼荼羅の原本(「根本曼荼羅」)は、損傷甚大ながら現在も當麻寺に秘蔵されている。縦横とも4メートル近い大作で、絵画ではなく織物である。ただし、伝説に言うような蓮糸の織物ではなく、絹糸の綴織(つづれおり)であることが研究の結果判明している。制作は奈良時代とも中国・唐時代とも言われるが、中国製とする見方が有力である。曼荼羅は元は厨子内に掛けてあったと思われるが、傷みの激しくなった中世に板貼りに改装され、江戸時代には板から剥がされて再度掛軸に改装されている。京都・大雲院の僧・性愚(しょうぐ)という人物が、江戸時代の延宝5年(1677年)に行われた曼荼羅修理の状況を記録に残している。それによると、曼荼羅を板から剥がすために表面に和紙を貼り、水を注いだところ、大きな音とともに剥がれ落ちた。別に用意していた絹地の上に剥離した織物の残片を貼り付け、織物が劣化して図柄の消えている部分は絵の具で補った。これが現存の国宝曼荼羅で、全体に劣化、損傷、退色が著しく、オリジナルの綴織の残存している部分は図柄全体の3分の1程度と言われている。特に図の下部は全く失われて絵画で補われているが、阿弥陀三尊の右脇侍(向かって左)の部分などにはオリジナルの織物が比較的良好に残っている。なお、板貼りの曼荼羅を剥がした後、板の表面に剥がれた曼荼羅の跡が残ったのを「裏板曼荼羅」と称し、曼荼羅厨子の背面に安置された。

当麻曼荼羅の原本は、制作から4世紀以上経った鎌倉時代にはかなり傷んでいたようで、建保3年(1215年)には第1回の転写本である「建保曼荼羅」が制作された。この第1回転写本は京都の蓮華王院(三十三間堂)に収められ、後に當麻寺に戻ったというが、現存していない。2回目の転写本は、文亀2年(1502年)に図柄が完成し、永正2年(1505年)に供養された「文亀曼荼羅」、3回目の転写本は、貞享2年(1685年)完成の「貞享曼荼羅」で、いずれも織物ではなく絵画である。現在、當麻寺本堂(曼荼羅堂)の厨子に掛けられているのは文亀曼荼羅(重要文化財)である。

[編集] 伽藍

西塔
仁王門
金堂
講堂

現在の當麻寺には、南を正面とする金堂・講堂と、東を正面とする本堂が相接して建っている。これらの南方には東西2つの三重塔が建つが、金堂と東西両塔の間には後世に中之坊、護念院などの子院が建てられ、創建当初の伽藍配置は想像しにくい。上代の多くの寺院同様、創建当時は南が正面入口であったと思われるが、現在の當麻寺の入口は東大門であり、南側には門はなく、本来の伽藍配置や信仰の動線はわかりにくくなっている。創建当初の當麻寺は、金堂を中心とし、南北方向の中軸線に沿って、金堂の後方に講堂、前方には東西二つの塔を配する薬師寺式に近い伽藍構成をとっていたと思われる。その後、当麻曼荼羅に対する信仰が盛んとなり、曼荼羅を安置する堂が「本堂」と呼ばれるようになった。當麻寺自体の本坊はなく、中心伽藍は浄土宗と高野山真言宗に属する子院によって管理されている。

  • 金堂(重要文化財)
入母屋造、本瓦葺。内陣の柱に文永5年(1268年)の田地寄進銘があり、これより以前、鎌倉時代前期の再建と思われる。藤原京や平城京の大寺の金堂に比較すれば小規模だが、創建以来の規模を保っているものと思われる。中世以降、當麻寺の信仰の中心は当麻曼荼羅を安置する本堂(曼荼羅堂)に移っているが、本来の中心堂宇が金堂であることは言うまでもない。内部は土間で、本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などを安置する。
  • 講堂(重要文化財)
金堂の背後(北)に建つ。寄棟造、本瓦葺。棟木の墨書により鎌倉時代末期の乾元2年(1303年)の再建であることが知られる。本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)のほか、多くの仏像を安置する。
  • 本堂(曼荼羅堂)(国宝)
金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。寄棟造、本瓦葺。棟木の墨書銘から平安時代末期、永暦2年(1161年)の建築であることがわかるが、解体修理寺の調査の結果から、平安時代初期(9世紀頃)に建てられた前身堂を改築したものであり、さらにさかのぼる奈良時代の建物の部材も一部転用されていることがわかっている。内部には当麻曼荼羅を懸けるための扁平で巨大な厨子を安置する。
  • 東塔・西塔(国宝)
いずれも三重塔である。東塔は初重が通常どおり3間(柱が一辺に4本立ち、柱間が3つあるという意味)であるのに対し、二重・三重を2間とする[2]特異な塔である(日本の社寺建築では、柱間を偶数として、中央に柱が来るのは異例である[3])。これに対し、西塔は初重、二重、三重とも柱間を3間とする。また、屋根上の水煙(すいえん)という装飾のデザインを見ると、西塔のそれはオーソドックスなものだが、東塔の水煙は魚の骨のような形をした、変わったデザインのものである(ただし、創建当初のものではないらしい)。細部の様式等から、東塔は奈良時代末期、西塔はやや遅れて奈良時代最末期から平安時代初頭の建築と推定される。東西の塔にデザインや建築時期の違いは若干あるものの、近世以前の東西両塔が現存する日本唯一の例として、きわめて貴重なものである。

[編集] 文化財

[編集] 国宝

当麻曼荼羅厨子扉
倶利伽羅竜蒔絵経箱
  • 東塔
  • 西塔
  • 本堂(曼荼羅堂)
  • 塑造弥勒仏坐像
金堂の本尊である。像高約2.2メートル。塑像(粘土製の像)は奈良時代には盛んに制作されたが、寺の本尊像を塑像とするのは比較的珍しい。本像の張りのある面相は、奈良・興福寺の「仏頭」の作風に通ずるものがあり、當麻寺草創期の天武朝(7世紀末)の造像と推定される。日本にある塑像としては最古例の1つである。
  • 当麻曼荼羅厨子
本堂(曼荼羅堂)内陣に安置される高さ約5メートルの巨大な厨子で、当麻曼荼羅を懸けるためのものである。平面は奥行が浅い扁平六角形で、屋根、柱等に残る金銀泥絵や金平文(きんひょうもん)[4]の装飾は正倉院宝物などに見られる古式の技法で、本厨子の制作が奈良時代末期-平安時代初期にまでさかのぼることを示す。厨子正面の扉(左右各3枚ずつの折戸)は、仁治3年(1242年)に厨子の大修理を行った際に新調したもので、黒漆地に金蒔絵で蓮池を表し、下部には2,000名を超える結縁者の氏名がやはり蒔絵で表されている。なお、この扉は取り外されて奈良国立博物館に寄託されている。
  • 綴織当麻曼荼羅図 - 「当麻曼荼羅と中将姫伝説」の節で述べた「根本曼荼羅」である。
  • 梵鐘
無銘ながら、作風等から日本最古級と推定される梵鐘で、當麻寺創建当時の遺物と推定される。2か所にある撞座の蓮弁の枚数が一致しない等、作風には梵鐘が形式化する以前の初期的要素がみられる。鐘楼の上層に懸けられており、間近で見学することはできない。

(奥院所有)

  • 倶利伽羅竜蒔絵経箱

[編集] 重要文化財

  • 金堂
  • 講堂
  • 薬師堂
  • 絹本著色当麻曼荼羅縁起 2幅
  • 紙本著色当麻寺縁起 3巻 絵土佐光茂筆 詞後奈良天皇等九筆
  • 絹本著色当麻曼荼羅掛幅(伝慶舜筆)(文亀曼荼羅)
  • 板絵著色諸尊曼荼羅図 2枚
  • 乾漆四天王立像
金堂須弥壇の四隅を護る。日本における四天王像の作例としては、法隆寺金堂像に次いで2番目に古い。また、日本における乾漆造の作例としても最古に属する貴重な作品である。後世の四天王像が一般に激しい動きを表し、威嚇的ポーズを取るのに対し、當麻寺の四天王像は写実的ながらも静かな表情で直立しており、その顔貌には髭が加えられ、中国成都万仏寺跡出土の天王像に求められるなど、異国風が感じられる。各像とも補修や後補部分が多く、4体の中で持国天像は比較的当初の部分を残すが、多聞天像は全体が鎌倉時代の木彫に代わっている。
  • 木造阿弥陀如来坐像(講堂本尊)
  • 木造阿弥陀如来坐像(所在講堂)
  • 木造地蔵菩薩立像(所在講堂)
  • 木造妙幢菩薩立像(所在講堂)
  • 木造阿弥陀如来坐像(紅玻璃(ぐはり)阿弥陀)(奈良国立博物館寄託)
  • 木造吉祥天立像(東京国立博物館寄託)
  • 木造十一面観音立像(東京国立博物館寄託)[5]
  • 木造光背 40面 附木造光背残欠
  • 石燈籠
  • 螺鈿玳瑁唐草合子(念珠入)

(中之坊所有)

  • 中之坊書院

(奥院所有)

  • 本堂
  • 方丈
  • 鐘楼門
  • 紙本著色十界図 六曲屏風
  • 紙本著色法然上人行状絵巻 48巻
  • 押出銅造三尊仏像
  • 木造円光大師坐像
  • 選択本願念仏集

(西南院所有)

  • 木造十一面観音立像
  • 木造聖観音立像
  • 木造千手観音立像

[編集] 登録有形文化財

  • 松室院客殿 - 中之坊

[編集] 名勝・史跡

  • 中之坊庭園 - 江戸時代初期作庭、1934年5月1日指定
    • 2011年6月28日に、中之坊庭園にあったカエデの木が倒壊し、周辺の築地塀唐戸門などが損壊した。カエデは老木で、樹勢が衰えていたため、倒壊した模様である[6]

[編集] 交通

[編集] 脚注

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  1. ^ 古代の寺院には山号はなく、「二上山」は後から付けられた山号である。
  2. ^ 日本の古塔で、二重目の柱間を三間でなく二間とするのは當麻寺東塔のみである。(中西亨『日本塔総鑑』、同朋舎、1978、p.42)
  3. ^ 石田茂作は、日本の古建築で正面柱間を偶数とする例として、當麻寺東塔のほか、法隆寺中門、出雲大社社殿、元興寺極楽坊本堂などを挙げている。(石田茂作『法隆寺雑記帖』、学生社、1975、pp.258 - 259)
  4. ^ 金の薄板を文様の形に裁断して漆塗の面に貼り付ける技法。
  5. ^ 本堂(曼荼羅堂)安置の十一面観音像(通称織殿観音・織姫観音)を「重要文化財」とする資料が多いがこれは誤りで、重要文化財指定像は東京国立博物館に寄託されている別の像である。
  6. ^ 名勝・中之坊庭園 倒木で築地塀など損壊 奈良・当麻寺 産経新聞 2011年6月29日

[編集] 参考文献

  • 近畿日本鉄道・近畿文化会編『当麻』(近畿日本ブックス1)、綜芸舎、1977
  • 井上靖、塚本善隆監修、富岡多恵子、中田善明著『古寺巡礼奈良7 当麻寺』、淡交社、1979
  • 松島健、河原由雄『当麻寺』(日本の古寺美術11)、保育社、1988
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』4号「法起寺・中宮寺・当麻寺・当麻寺奥院」、朝日新聞社、1997
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館
  • 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 奈良県』、角川書店

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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