張龍

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張 龍(ちょう りゅう、? - 1397年)は、末から初の軍人。濠州(現在の安徽省鳳陽県)の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。

生涯[編集]

姓名 張龍
時代 元代 - 明代
生没年 生年不詳 - 1397年洪武30年)
字・別名 -
本貫・出身地 濠州(現在の安徽省鳳陽県
職官 花槍所千戸→威武衛指揮僉事→鳳翔衛指揮

→僉大都督府事→世指揮使

爵位 鳳翔侯(明)
諡号 -
陣営・所属 朱元璋
家族・一族 子:張麟

1353年定遠攻略に参加した24将の1人。

1355年6月、渡江に従った。

1357年3月に常州、4月に寧国を攻略した。

1358年12月、婺州を攻略した。

1361年8月、江州攻略に都先鋒として参加した。

1364年2月、武昌を攻略し、花槍所千戸を授けられた。

1366年3月、淮東を攻略し、海安を守った。張士誠軍と海口で戦い、彭元帥を捕らえ、捕虜数百を得た。

1367年7月、通州に侵攻し、賊将を斬った。威武衛指揮僉事に抜擢された。

1368年洪武元年)、山東河南平定に参加した。5月、潼関を攻略し、副留守として、これを守った。

1370年(洪武3年)、鳳翔衛指揮となり、鳳翔を守った。賀宗哲が鳳翔を囲んだ。張龍は固く守った。賀宗哲が北門を攻め、張龍は兵を出して戦った。矢傷を右肘に受けたが、動じることなく戦い続け、敵軍を大敗させた。鳳州を攻略し、李参政等20余人を捕らえた。5月、徐達沔州を攻め、張龍は一軍を率い、鳳翔を経由して興元を攻めた。興元の守将の劉思忠は降伏した。金興旺と共に興元を守った。7月、の将の呉友仁が興元に侵攻し、張龍が迎え撃った。呉友仁軍は3万、興元の守備軍は3千であり、守備側が不利な状況にあった。呉友仁は繰り返し攻撃をしかけた。張龍は北門から突出し、敵軍は武器や防具を捨てて敗走した。以後、再び興元を攻めることはできなくなった。僉大都督府事となった。

1378年(洪武11年)、副将として李文忠に従い、洮州を攻略した。鳳翔侯に封ぜられ、禄2千石を賜り、世指揮使となった。

1381年(洪武14年)、傅友徳に従い、雲南に遠征した。

1382年(洪武15年)2月、七星関・大理鶴慶を攻略し、諸洞の蛮族を平らげた。禄5百石を加えられた。

1387年(洪武20年)1月、馮勝に従い、6月、金山でナガチュを降伏させた。

1388年(洪武21年)、馮勝に従い、雲南へ遠征した。常徳が叛き、軍を去った。張龍は重慶まで追いかけ、これを捕らえた。

1390年(洪武23年)1月、唐勝宗と共に平越鎮遠・貴州の屯田を行い、龍里衛を置いた。都勻で反乱がおきたときには、藍玉を補佐して、これを平定した。

1397年(洪武30年)、亡くなった。

参考文献[編集]

  • 明史』巻1 本紀第1 太祖1
  • 『明史』巻2 本紀第2 太祖2
  • 『明史』巻3 本紀第3 太祖3
  • 『明史』巻130 列伝第18 張龍
  • 明史紀事本末』巻4 太祖平呉
  • 『明史紀事本末』巻11 太祖平夏