張献忠
張献忠(ちょうけんちゅう、1606年9月18日 - 1646年10月20日)は、明代末期の農民反乱軍の指導者。字は秉忠、号は敬軒。
陝西延安衛柳樹澗堡(現在の定辺県郝灘郷劉渠村)の出身。もとは軍籍にあったが法を犯して除籍された。崇禎3年(1630年)に王嘉胤が反乱を起こすと、米脂県にいた張献忠はこれに呼応し八大王を自称した。間もなく高迎祥の下に投じて東方へ進出し、山西、河南を転戦した。
後に李自成との反目から高迎祥の敗死を招くも、黄河流域へ進んだ李自成と袂を分かち長江流域へ攻め込み湖南、江西から四川に侵入して独立勢力を形成した。1637年には明軍の総兵官・左良玉の部隊の攻撃により張献忠の起義軍は大きな損害を受け本人も負傷した。
一時は官軍に降り、1638年には湖北省の谷城県の副将となり王家河に駐屯したものの、翌1639年に再度明に対して反旗を掲げ四川省との境界付近を転戦した。1641年に襄陽を破り襄王朱翊銘を殺し、1643年に武昌を拠点として「大西王」を称した。
四川に入った張献忠軍は崇禎17年(1644年)8月9日に成都府を陥落させ、巡撫の龍文光、蜀王朱至澍、その妃らはすべて自決した。張献忠は60万の大軍を称して四川省の大半を制し、8月16日には成都府に拠って大西皇帝を称し、大順に改元して成都を西京とした。
明滅亡後は、清軍の圧迫を受けて成都を捨て、1646年10月20日に塩亭県鳳凰山で粛親王豪格の軍勢と交戦中に射殺された。成都を離れた時に700人ほどだった大西の軍はこの時わずか25人にまで減っていた。なお残党は献忠の死後も抵抗を続け、1659年に重慶が陥落するまで清朝への抵抗運動を続けた。
[編集] 大虐殺
張献忠は嗜虐癖が異常に強く、残酷な殺戮を好んだ。彭孫貽の『平寇志』によれば、崇禎八年(1635年)には安徽省の鳳陽県で街に火を放ち数万人を殺戮し、同じ年に安徽省和州を攻撃した際も虐殺を行ったとされる[1]。
四川在住者は「屠蜀」もしくは「屠川」と呼ばれる無差別殺戮により、ほぼ全滅状態になった。清朝の史料が正しいのなら、順治三年(1646年)に張献忠が成都から落ちのびる時に自暴自棄となり空前の殺戮を行い[2]、40万人を数えた成都の人口はわずか20戸にまで減り全滅同様になった。「天府之国」と称された四川省は徹底的に破壊され、300万人ほどの人口が8万人となった。『明會要』巻五十によれば明の神宗万暦六年(1578年)に人口310万2073人だった四川は、嘉慶『四川道志』巻十七によれば、清の聖祖康熙二十四年(1685年)には1万8090人となっていたという。このため清朝の前半、1671年から1776年までの間にかけて湖北省・湖南省・広東省などからの移民数百万人が四川省へと移民した(湖広填四川)。現在の四川人の方言(西南官話)が北京普通話に近いのもこの時の張献忠による四川人殲滅殺戮によって古代四川人が壊滅したことが大きいとされる[3][4]。
彭遵泗の『蜀碧』をはじめとする書物や各地の言い伝えには、張献忠の行ったありとあらゆる手口を使った殺戮が残されている。四川にいたイエズス会宣教師のロドヴィコ・ブーリオ(Lodovico Buglio、中国名:利類思)とガブリエル・デ・マガリャンイス(Gabriel de Magalhāes、中国名:安文思)の著書『聖教入川記』にもこうした記載は見られる。
大虐殺にまつわる逸話としては、以下のものがある。
- ある時、虫の居所が悪かった張献忠は、部下に命じて自分の息子や妻妾たちを皆殺しにした。翌日その事を忘れて、息子や妻妾たちを呼び出そうとしたのだが、現れるはずも無い。自身の行いを思い出した彼は、「何故止めなかった!」と部下を皆殺しにした。
- 友達を招き、宴会を開いて歓待した。しかし、友人が帰路についたあとで、刺客を放って殺させた。そして持ってこさせた首を長持ちに入れて持ち運び、暇な時には、集めた友人たちの首を並べてママゴト宴会を楽しんだ。
- 役人を集め、その前に犬を連れ出すと、犬が臭いを嗅いだ者を殺した。これを「天殺」と呼んだ。
- 僧侶には銀10両、小坊主には6両お布施を出すとの触れを発した。それを信じて集まった数万人の僧侶と小坊主を10人ごとに縄で縛り、皆殺しにした。
- 科挙を行うとの触れを発し、集まってきた知識人のうちで身長120cm以上の者を殺した。数万人の学生のうち、助かったのは子供2人のみだった。
- 女性を殺すと、纏足された足のみを切断して集め、山のように積み上げた。しかしその頂上にできるような、いい足が見当たらない。愛妾が自身の足を冗談で見せたところ、すぐさま彼女の足を切断し、頂上に乗せて完成させ、悦に入った。
- 人体のツボの位置を示した人体模型を手に入れ、それを白い紙で覆ってツボの位置が見えないようにした。その上で医師たちを集め、「この人形のこのツボを示せ!」と命じた。少しでも間違えた者は、容赦なく殺した。
- 四肢の切断を「匏奴」(ほうど)、人体を背骨の位置で縦割りに切り離すのを「辺地」、赤子を投げ上げ、槍で貫くのを「雪鰍」(せっしゅう)または「貫戯」(かんぎ)と呼んだ。
- 生きた人間の生皮を剥ぎ、1日近くの間苦しめて殺した。もし皮剥ぎの最中や執行直後に死んだ場合、あるいは剥がした皮に少しでも肉片が付着していた場合は、執行人が不手際の咎で皮剥ぎに処された。
民間に伝わったところによれば、張献忠は虐殺後、成都の中心に「七殺碑」と呼ばれる石碑を建立したとされる。
- 天生万物以養人
- 人無一物以報天
- 殺殺殺殺殺殺殺
ただし、これは
- 天生万物以養人
- 人無一物以報天
- 鬼神明明自思自量
と民を教化するために建てられた石碑の内容が、変えられたものだとされている[5]。
ただ、全滅したはずの四川省で張献忠の死後も10年以上清朝に対する抵抗運動が続いていることから、清朝が四川で行った殺戮が全て張献忠が行ったと誇張されたという見方もある[6]。魯迅は『晨涼漫記』で、張献忠は皇帝になりたかったがなれないと分かったので、せっかく手にした宝を他人に奪われるのなら壊してしまえとばかりに虐殺を行ったと評している一方で、四川の人々が清軍がやってくるまで、何故、抵抗もせず大人しく殺されていったのかとも皮肉っている[7]。『酒池肉林-中国の贅沢三昧-』(講談社現代新書、井波律子著)では魯迅のコメントを踏まえた上で、人々が清の支配を受け入れるために張献忠殺戮伝説を誇張させていったのではないかと推察している。
[編集] 脚注
- ^ 「是時殺戮慘毒,有縛人去淫其妻殺之者;有趨人父淫其女而殺之者;有裸孕婦共卜腹中嬰兒男女刨驗以為戲者;有以大鍋沸油擲嬰孩於內觀其跳躍啼好以為樂者……所虜子女萬千,臨行不能多帶,盡殺兒趨,暴殘恆古未有。」
- ^ 成都中心部では2002年に建設現場から100人以上の人骨が見つかっている。http://app1.chinadaily.com.cn/star/2002/0411/cn8-3.html
- ^ 『紫禁城の栄光』講談社学術文庫
- ^ 『新訂 中国語概論』大修館書店
- ^ 中国の歴史(6) 講談社 陳舜水
- ^ 清朝の歴史家・劉獻廷の『広陽雑記』には、「余聞張獻忠來衡州,不戮一人。以問婁聖功,則果然也。」とあり、張献忠が言われるような殺戮者ではないことが示唆されている。
- ^ また、魯迅は「中国史は大まかに二つに分けることができる。安穏と奴隷でいられる時代と奴隷になりたくてもなれない時代だ」と言っている。