張済
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張 済(ちょう さい、? - 196年)は、後漢末期の武将。董卓の家臣。張繍の族父に当たる。
董卓に仕えていた。191年頃、董卓の娘婿の牛輔は李傕・郭汜・張済を派遣して、中牟で朱儁を破り、兗州陳留郡・豫州潁川郡の諸県を攻略し、略奪・殺戮・誘拐を行った。
192年、董卓が王允らによって暗殺されると李傕らと共にその復讐に立ち上がり、李傕・郭汜・樊稠・王方・李蒙と共に長安に攻め上って王允を殺害した。さらに献帝に迫って驃騎将軍・平陽侯となり、弘農に駐屯した。
後に李傕と郭汜が献帝を巡って長安で覇権争いを始めた際に、弘農から兵を率いて長安に入り二人を和睦させ、献帝を自分の根拠地である弘農に移そうとして長安から連れ出した。郭汜は心変わりし献帝を郿に連れ去ろうとしたが、楊奉に撃退された。楊奉・董承らが献帝を洛陽に連れて行こうとしたので、楊奉らと仲違いした張済は李傕・郭汜とともに楊奉ら官軍を攻撃し撃破した。だが、献帝の命令により、李傕らは楊奉らと和睦を結んで追撃を中止した。献帝を手放した李傕・郭汜・張済は求心力を失い、勢力は衰退した。
その後、張済は食料が欠乏したので、荊州北部で略奪を働いたが、穣県を攻撃した時、矢に当たって死亡してしまった。彼の死後、族子の張繍が後を継いだ。
曹操は張済の妻を側妾にし、その事を張繡が恨んでいることを知ると、密かに張繡を殺害する計画をたてたが、その事を察知した張繡に襲撃され命からがら逃げ出すも、息子の曹昂や甥の曹安民や親衛隊長の典韋を死なせてしまった。
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張済は、後漢末期の政治家。字は元江。
張耳の末裔という汝南張氏出身。後漢初期の名臣張酺の曾孫に当たる。張磐の子。張喜の兄。張根の父。
光和年間に司空(三公の一つ)を務めた。前任は袁逢、後任は張温である。
儒学を好んだという。病により司空を辞し、霊帝の在世時に没した。死後に車騎将軍、関内侯を贈られた。

