張巡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
張巡・『晩笑堂竹荘畫傳』より
張巡

張巡(ちょう・じゅん、景雲3年(709年) - 至徳2載(757年)は中国・代の武将。字も巡。

略伝[編集]

南陽の出身。若くして兵法に通じ、開元29年(741年)に進士となる。この頃、兄の張暁は監察御史に就任しており、すでに兄弟ともに名声を得ていた。太子通事舍人となり、県令として清河へ赴任。内治に功績を挙げ、任期が満ちた後に楊国忠に推薦する人もあったがこれを断り、真源県へ県令として赴任する。その地でほしいままに振る舞っていた大吏の華南金を誅し、民から慕われた。

天宝15載(756年安禄山が反乱を起こし、張巡は兵を集めて雍丘にて、安禄山側の令狐潮李廷望と戦い、何度も打ち破り、寧陵に移ってからも、楊朝宗を破り、副河南節度使に任じられた。

安慶緒が安禄山を殺し、尹子奇睢陽を攻めさせた。睢陽太守の許遠に援軍を求められ、睢陽に入り、一手となった。許遠は上官であったが、張巡の実力を認め、主将の位置を譲る。睢陽城は初め、1年分の蓄えがあったのを河南節度使・虢王・李巨に無理に召し上げられ、4月から10月にかけて賊軍に囲まれ、食料に困窮した。臨淮に駐屯していた御史大夫賀蘭進明に援軍を頼むが、賀蘭進明は敗北することと友軍に背後を襲われるを怖れ、また、張巡の名声を妬み、援軍を断った。

ついに、睢陽は落城に至り、張巡は屈せず、南霽雲雷万春姚誾ら幹部30余人は捕らわれて処刑された。許遠は洛陽に連行された。援軍の張鎬が到着したのは、落城後、3日後だった。だが、睢陽城の頑強な抵抗が唐軍の別働隊の行動を容易としたために、落城10日にして賊軍の大部分は敗亡し、尹子奇も殺された。敵兵12万人を殺したと言われる。死後、睢陽に廟が建てられている。

人物[編集]

  • 張巡は、兵士や住民の名前を一度聞いたら忘れることはなかった。また、書物も三回読んだら一生忘れなかった。文章も下書きをせずに作り上げた。
  • 刻々と変化する安禄山の軍に対応するため、古来の陣法は用いず、将に自分の意志で戦わせた。
  • 形勢不利でも、戦陣を動くことはなく、ために、兵士たちも退却せずに、敵をうち破ってきた。司令は明確で、賞罰は公正、兵と苦楽をともにしたという。
  • 戦いの度に歯を食いしばり、そのため、死ぬ時には歯が数本しか残っていなかった。

戦闘エピソード[編集]

  • 雍丘にて、令狐潮の4万の軍が油断しているところを千人で奇襲を掛けて荒らし、油を染み込ませた藁を燃やして投げおろして城を守り、その後も奇襲、夜襲をしかけ、60日で敗走させ2千人を捕らえた。
  • 雍丘に再び押し寄せてきた令狐潮の降伏勧告を拒否し、降伏派の大将を6人斬り、夜間に藁人形を城壁から下ろして、敵の矢数十万本を奪った。敵が気づいて応対しないところに本物の兵を下ろし、打ち破った。
  • 睢陽に援軍に来た当初は、尹子奇率いる大軍を6800人で城を打って出て正面からうち破り、敗走させた。また、油断を誘わせところに、城門から精鋭を出して攻撃させた
  • 計略を持って尹子奇を負傷させ、敗走させた。(南霽雲・参照)
  • 戦いが長引き兵糧つきたため、茶、紙を米に混ぜて食べるようになり、増援もなく、そのため、睢陽の包囲を許してしまった。
  • 城壁に3つの穴を掘り、1つからは木を、1つからは鉤を出し、雲梯を動けなくさせ、最後の穴からは火が燃えさかった鉄の籠を出し、雲梯を焼き払った。
  • 敵が城壁を登ろうと土嚢を積み上げていた時、夜、密かに藁や松明をいれ、風が強い日に火をつけ、敵軍ごと焼き払った。
  • 落城の間近には、まず、馬を食べ、雀や鼠も食べ尽くし、最後は張巡自身の妾を殺して兵士に食べさせた。また、城にいた女性も同様に殺され食べられた(カニバリズム)。

後世の評価[編集]

死の直後には、張巡が既に孤城となった睢陽をあえて守ろうとした事を非とし、人を喰った事や、民を守れなかった事を謗る意見もあった。 しかし張巡の友人李翰は彼の為に伝を作り、以下のように述べた

「巡は、寡で以て衆を撃ち、江、淮を保って陛下を待ちました。彼の功績は偉大です。しかるに議論する者は、彼が人を喰ったとか、死守したのは愚かだとか言っております。これは善を遮り悪を揚げる行為であり、臣はこれを痛みます。巡が固守したのは、救援を待っていたからです。救援が着く前に食糧が尽きたので、止む無く人を食べましたが、彼の本意ではないのです。巡は大難に死に、ただ令名だけが彼の栄禄です。今これを記録しなければ、時が経つと共に彼の生き様が消え去ってしまいます。 ですから臣は敢えて一巻を編纂し、これを献上します。」

この事により張巡の評価は定まったとされる。

小杉放庵のように「楠公千早城と比べて誉められる功績」と評する人もいるが、王夫之のように「二顔(顔真卿顔杲卿)の河北に起こり、張許(張巡・許遠)の睢陽を守る、皆市人を率いて以て戦う。賊の望みて目笑する処のものなり」と玄宗の軍政の失敗による犠牲者ととらえる歴史家もいる。

張巡の詩[編集]

軍中聞笛
岧嶤試一臨  岧嶤試みに一臨すれば
虜騎附城陰  虜騎城陰に附す
不辯風塵色  風塵の色を辯ぜずば
安知天地心  いずくんぞ天地の心を知らん
門開邊月近  門開いて邊月近く
戦苦陣雲深  戦い苦しんで陣雲深し
旦夕更樓上  旦夕更樓の上
遙聞横笛音  遙かに聞く横笛の音

伝記資料[編集]

  • 浅見絅斎著『靖献遺言』は中国史上有名な忠義義士の中から八人を択んで、代表的な詩文を編著した結晶である。その中 に顔真卿があげられた。顔真卿の伝終わる後に、後記として、張巡の伝が始まる。同じ乱に処した二人の運命である。
  • 旧唐書』巻百八十七下 列伝第百三十七下忠義下「張巡伝」
  • 新唐書』巻百九十二 列伝第百一十七忠義中「張巡伝」
  • 韓愈「張中丞伝後序」