張コウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本来の表記は「張郃」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。

張郃(ちょうこう・ちょうごう、? - 231年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。儁乂(しゅんがい)。の字は合に「おおざと」。子は張雄・他四名。

初め韓馥、次いで袁紹に仕え、その後曹操に降伏。黄巾の乱から50年近く一線で戦い続けたとされる宿将で、晩年は魏国における対蜀漢戦の要として重用される。

目次

[編集] 事績

[編集] 曹操に仕えるまで

三国志』によると、冀州河間郡(ばく)の人。若い頃に黄巾の乱の反乱軍鎮圧の募兵に応じて韓馥の配下として活躍した。韓馥の没落後は袁紹に仕えて校尉に任命され、公孫瓉との戦いなどで活躍した功績で、寧国中郎将にまで出世した。

200年官渡の戦いの烏巣攻防戦では、曹操の兵が強いことから烏巣兵糧庫の守将である淳于瓊に援軍を送るよう袁紹に進言するが、同僚の郭図は反対し、総軍で曹操の本営を攻撃するよう進言した。張郃は「曹操軍の本営は簡単には落ちない」として異を唱えたものの、袁紹は両方の策を取り入れるという優柔不断な行動をとり、烏巣に援軍を送りつつも、曹操軍の本営を攻撃した。その際、張郃は曹操本営への攻撃を諌めたのにもかかわらず、袁紹にその本営攻撃の主将に任命されている。

張郃の予期した通り曹操軍の本営は落ちず、烏巣の兵糧庫は曹操の手に落ちるという最悪の事態となった。淳于瓊が敗れたと聞くと、張郃は高覧と共に曹操に降伏した。曹洪は張郃らの降伏を怪しみ、張郃らを迎え入れようとしなかったが、荀攸は「張郃が降伏したのは自分の計略が採用されなかった事を怒って降伏したのです」と言ったので、ようやく張郃らを迎え入れた。淳于瓊の敗北を恥じた郭図が「張郃は敗北を喜び、不遜の言を吐いている」と讒言したから、張郃は後難を恐れ曹操に降伏したという説もある。

曹操は張郃の降伏を喜び、「伍子胥は自分が誤った君主に仕えたことに気がつくのが遅かったために不幸な最期を遂げた。君が私に降伏したのは微子啓を裏切ってに仕え、韓信項羽のもとを去って劉邦に仕えたような真っ当な行動である」として偏将軍に任命し、都亭侯に封じた。

[編集] 曹操配下として

その後は曹操配下の将軍としてを陥落させるなど袁紹の遺領平定の攻撃に功績を挙げ、さらに207年烏丸との戦いでは張遼とともに先鋒を務め、その功績で平狄将軍に任命され、以降も各地を転戦した。

211年からの馬超韓遂との戦いでも、曹操に従い馬超・韓遂を破り、楊秋を降伏させるなど功績を挙げた(潼関の戦い)。

215年張魯との戦いでも朱霊とともに族を撃退し、本軍に先行し道を通じさせた。張魯は曹操に降伏し、張郃は夏侯淵らとともに漢中の守備についた(主将は夏侯淵)。張郃は巴東・巴西の二郡を降し、その住民を漢中に移していたが、張飛に撃退された。

219年定軍山の戦いで夏侯淵が劉備軍の黄忠に討ち取られ、主将を失った曹操軍は混乱に陥った。そこで夏侯淵の幕僚であった郭淮は「張郃将軍は国家の名将であり、敵将の劉備も恐れている。この事態は張郃将軍以外において打開できない」と全軍に命令を発して張郃を主将に推薦し、張郃が主将となった[1]。張郃は全軍を励まして動揺から落ち着かせ、諸将もまた張郃の軍令に従った。その後曹操自らが漢中に入って劉備と対峙するもののついに大規模な衝突にはならず、曹操は漢中から撤収した。張郃は漢中から長安の中途にある陳倉に駐屯した。

220年、曹操の子曹丕が王位につくと左将軍に任命され、帝位につくと鄚侯に封じられた。221年曹真とともに盧水胡と東を討伐した。222年、曹真・夏侯尚らとともに江陵を攻め、艦隊を率いて孫盛を破り、長江の中州のを占領した。

[編集] 諸葛亮との戦い

その後も張郃は呉との戦いで功績を挙げたが、228年街亭の戦いで対蜀漢の前線に再度召還される。

張郃が街亭に着くと、蜀の前線大将馬謖は山に布陣していた。張郃はまず馬謖軍の水をくむ道を絶ってから攻撃し、これを散々に撃ち破って街亭を奪還した。これにより戦略上の要所を奪われた蜀漢軍は撤退した。魏軍は蜀に降伏した天水、南安、安定の三郡を平定した。この戦功で張郃は食邑を千戸加増され、以前と合わせて四千三百戸となった。後に征西車騎将軍[2]に任命された。

231年諸葛亮率いる蜀漢の軍勢が祁山から全面撤退を開始した時に、張郃は蜀軍を追撃したが矢が右膝に当たり死去した。『魏略』によると、司馬懿は張郃に追撃するように命じたが、張郃は「軍法にも敵を囲む際には必ず一方を開けよとある。追い詰められて退却する軍を追撃してはならない」と反発したが司馬懿は聞かず、やむを得ず出撃したところ、蜀軍の伏兵の攻撃にあい、敵の射撃を受ける中で矢が髀に当たって死去した。[3]

ちなみに三国志演義では、諸葛亮の策略で魏延が偽りの敗走をし続け、それを追撃した張郃が木門道という場所で伏兵の一斉射撃に合い射殺されるという描写に変更されている。

ときの魏の皇帝曹叡(明帝)は歴戦の老将である張郃の陣没を大いに悲しみ、壮侯と諡号を送った。

張郃は変化の法則をわきまえており、よく陣営を統率し、状況や地形を考慮して計略通りにいかないことはなかったとされる。そのため、諸葛亮以下蜀の将兵は、皆張郃を恐れたとある。また儒学者を大事にする面もあり、同郷の卑湛を推挙したりしている。

吉川英治の「三国志」では作者のミスで、三回も戦死している(汝南で関羽に・長坂で趙雲に・木門道で孔明らに殺される)。

[編集] 脚注

  1. ^ 注に引く『魏略』によれば劉備は張郃を警戒し、夏侯淵をくみしやすいと考えており、劉備は夏侯淵討死を聞いても「一番大事な者(張郃)の首を討ち取ってはいないではないか!」と言ったという。
  2. ^ 『三国志』張郃伝より。この官名は他に見えず、征東車騎将軍や征南車騎将軍なども例を見ない。そのためこの記述については、「誤植である」「征西の命を帯びた車騎将軍という意味である」などの指摘がある。なお『晋書』宣帝紀では張郃は車騎将軍と記述されている。
  3. ^ 『太平御覧』巻291に引く『漢表伝』によれば、蜀軍は樹木の木肌を削って「張郃此の樹下に死せん。」と大書し、その両側に強弩数千を伏せておいた。追撃軍がこの樹を見つけて不審に思い、張郃自ら上記の文章を読んだ途端、弩兵が一斉射撃し張郃を射殺したという。ただし、この内容は『史記』孫臏伝で孫臏が龐涓を誘殺した際と全く同じものであり、物語を引き立たせるために過去の故事を引き写した可能性が高い。

[編集] 関連項目