平塚城

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平塚城址とされる平塚神社(東京都北区)

平塚城(ひらつかじょう)は、武蔵国豊嶋郡東京都北区)にあった。別名は豊島城

歴史[編集]

「平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」によれば豊嶋郡の郡衙があった場所に平安時代豊島近義が築城したと伝えられる。後三年の役の帰路に源義家義光義綱の兄弟がこの館に逗留し、手厚いもてなしに感謝した義家は鎧一領と十一面観音像を下賜した。後に、この鎧を城の守り本尊として埋めて塚を築いた。これを鎧塚という。

鎌倉時代末期頃に豊島氏は石神井城(東京都練馬区)を築いて居城とし、平塚城はその支城となった。室町時代文明年間頃の城主は豊島氏当主泰経の弟の泰明だった。文明8年(1476年)、泰経・泰明兄弟は長尾景春に呼応して関東管領上杉氏に反旗を翻し、石神井城、練馬城(東京都練馬区)、平塚城で挙兵した(長尾景春の乱)。文明9年4月(1477年)、江戸城太田道灌は泰明の立て籠もる平塚城に攻め込み、城下に火を放つ。泰経は救援のために出陣、泰明も城を出て道灌と戦うが敗れて泰明は討ち死にしてしまう(江古田・沼袋原の戦い)。

翌文明10年(1478年)に泰経は平塚城で再挙するが、道灌に攻められて落城。泰経は没落して、豊島氏は滅亡した。その後は、使用されず廃城となった。

江戸時代にはいって将軍徳川家光の頃に神社は針医山川城官貞久によって再興され、家光から寺領50石の寄進を受けた。

遺構[編集]

平塚城の正確な所在は不明で江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』でも「今其所在定カナラズ」とある。古来、平塚神社(東京都北区上中里)周辺の台地が城址と推定されている。発掘調査が行われたが未だ遺構を確認するに至っていない。

平塚神社には元禄5年(1692年)に作成された神社とこれを開基した豊島氏の歴史を描く絵巻(「平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」)が残され北区指定有形文化財に指定されている。

平塚神社の場所はJR京浜東北線上中里駅から南へ坂を登った50mほど。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 杉山博『豊嶋氏の研究』(名著出版、1974年)
  • 峰岸純夫, 黒田基樹, 小林一岳ら編『豊島氏とその時代―東京の中世を考える』(新人物往来社、1998年)ISBN 4-404-02617-X

外部リンク[編集]