帯広キネマ館

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帯広キネマ館
Obihiro Kinemakan
帯広キネマ館(四代目店舗)および長崎屋帯広店(初代店舗)が入居していたポポロビル
(写真右側手前のビル。2003年8月撮影)
情報
通称 キネマ館
正式名称 帯広キネマ館
完成 1919年
開館 1970年9月23日
開館公演 「ズンドコズンドコ全員集合!!」「こちら55号応答せよ!危機百発」(1970年のリニューアル・オープン時)[1]
閉館 2003年11月30日
最終公演タイタニック
収容人員 (4スクリーン)490人
設備 DOLBY STEREO
用途 映画上映
運営 夷石興行株式会社
所在地 北海道帯広市西2条南9丁目
ポポロビル内
最寄駅 JR帯広駅
最寄バス停 十勝バス拓殖バス「西2条9丁目」停留所(道道26号沿い)
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帯広キネマ館(おびひろキネマかん)は、かつて北海道帯広市にあった映画館である。

サイレント映画時代の1919年(大正8年)に創設され、道内にシネコンが乱立する2003年(平成15年)に閉館するまで84年間にわたり帯広市内を代表する映画館として親しまれた。

データ[編集]

  • 所在地:北海道帯広市西2条南9丁目 ポポロビル内
  • 運営:夷石興行株式会社(現:有限会社いせきビル、代表取締役社長:夷石行夫)
  • 座席数(閉館時)
    キネマ館(地下1階):180席
    キネマ2(2階):150席
    キネマ5(5階):80席
    キネマ6(5階):80席

歴史[編集]

黎明期[編集]

キネマ館で演奏を行ったことがある万城目正
(1948年の写真)

十勝毎日新聞の前身『帯広新聞』が創刊された1919年(大正8年)、当時の帯広町西2条南9丁目にて開業。しかし1920年(大正9年)、商業的不振から経営者が荘田喜六(創設者)から夷石民夫に交代し、以降は夷石家の所有となった[2]。この当時の帯広町内では、当館の前年、西1条に開業した神田館(佐藤市太郎経営)と、芝居小屋の「朝倉座」から「陽気館」を経て改称した千代田館がキネマ館と鎬を削っていた[3][4][5]

1932年(昭和7年)7月、不二映画社が製作し同年4月14日に東京で公開されていた佐左木俊郎原作・鈴木重吉監督のサイレント映画『熊の出る開墾地』がキネマ館で上映された[6]。同年の時点では、神田館が「美満寿館」と改称した[7]一方、千代田館が火災で消失し営業をストップしている[5]。この頃には、幕別町出身の作曲家・万城目正がサイレント映画専門の楽団に参加しピアノ演奏をしていた[8]。後年、帯広市議会議長を務めていた嶺野侑(元北海タイムス記者)は、「(映画館での)仕事を通して庶民の思いを体感したのでは」と講演会で語っている[8]。1933年(昭和8年)4月1日、市制が敷かれ帯広町は帯広市となる。1939年(昭和14年)、2代目館主の夷石民夫が逝去。長男の勝が3代目館主となる[2]

画像外部リンク
学校法人帯広葵学園
1964年(昭和39年)1月20日の十勝毎日新聞の映画案内広告
キネマ館で今村昌平監督の『にっぽん昆虫記』が上映されていたことが確認出来る。

終戦から5年を経た1950年(昭和25年)6月25日、3代目の建物に改築[9]。この頃から当館の前に猿小屋を設置したり[10]、お盆の時期にはミニお化け屋敷を設けるなどユニークなサービスを行っていた[2]。1953年(昭和28年)西1条南9丁目にニュース劇場プリンス(後のプリンス劇場)が、1955年(昭和30年)に帯広東劇(後の帯広大映劇場)、1956年(昭和31年)にテアトル銀映といったグループ館が新設。1960年(昭和35年)にはこの4館を含めた10館が帯広市内に存在していた[2][11]。当時のキネマ館は日活映画の封切館で、『嵐を呼ぶ男』『黒部の太陽』などがヒットしていた[12]。1960年(昭和35年)製作の小林旭主演『大草原の渡り鳥』(監督:齋藤武市)では、帯広市内でもロケが行われ、同館の従業員数十名がエキストラとして出演している[13]函館市にあるミニシアターシネマアイリス」の代表・菅原和博は、小・中学校時代に帯広に住んでいたことがあり、キネマ館で吉永小百合主演の『愛と死をみつめて』、渡哲也主演・鈴木清順監督の『東京流れ者』を観た思い出を「北海道新聞」のインタビューで語っている[14]

複数スクリーンの時代[編集]

1966年(昭和41年)、夷石興行の社長が夷石龍彦に交代[2]。1970年(昭和45年)、20年続いた3代目の建物を取り壊し、同年9月23日に自社ビルとなる「いせきビル」を建設。同ビル地下1階にキネマ館、その上層階に長崎屋帯広店が入居し新たなスタートを切る。この時のリニューアルオープン番組としてザ・ドリフターズの映画『ズンドコズンドコ全員集合!!』とコント55号主演の『こちら55号応答せよ!危機百発』といった松竹映画2本立が上映されている[1]。その一方でプリンス劇場は存続するが、テアトル銀映と帯広大映は閉鎖の憂き目にあうこととなった[2]。1990年(平成2年)、長崎屋帯広店が西4条南12丁目に移転したのを機にビルの名称を「ポポロビル」に改め、「キネマ2」(1992年11月14日[15] - )「キネマ5」(1997年4月19日[16] - )「キネマ6」(2001年[17] - )を相次いで同ビル内に新設。4スクリーンを有する映画館となった。同市出身の映画監督・熊切和喜は高校時代にキネマ館へよく行ったことを「十勝毎日新聞」の記事で語っている[12][18]。1995年(平成7年)、夷石行夫が社長に就任する[2]

閉館の引き金となったシネマ太陽帯広(帯広太陽ビル内)

2000年(平成12年)時点の帯広市にはキネマ館3スクリーンのほかに、帯広プリンス劇場(西1条南9丁目)、帯広グランドシネマ(西4条南9丁目)、帯広シネマアポロン(西4条南9丁目)、帯広テアトロポニー(西4条南9丁目)、帯広シネマ(西3条南9丁目)、帯広ミラノ(西3条南9丁目)の計9スクリーンがあった[19]。しかし、1977年(昭和52年)に開業したライバル館「帯広スガイ」(グランドシネマ・シネマアポロン・テアトロポニー)が閉鎖され、同市内の映画館はキネマ館4スクリーンとプリンス劇場、西3条南9丁目にあった帯広ミラノ座・帯広シネマの計7スクリーンに減少した。この頃、帯広サティ(現:イオン帯広店)付近にワーナー・マイカル・シネマズを建設する計画が報じられたが、程なくして頓挫。その一方でいせきグループもシネコン構想を練っていたものの、結局実現することはなかった[2]。そして2003年(平成15年)11月5日、西3条南11丁目の帯広太陽ビル7階に5スクリーンのシネコン「シネマ太陽帯広」がオープン。競合回避のためプリンス劇場は同年11月7日に経営から撤退し、NPO法人「CINEとかち」に譲り受ける。そしてキネマ館4スクリーンは同年11月30日にすべて閉館[18]。最終興行として同年11月29日と30日に『タイタニック』が上映され、84年の歴史にピリオドを打った。

閉館後[編集]

キネマ館があったポポロビルは解体され跡地は駐車場となった。2004年8月、その駐車場入口付近に猿のモニュメント(高さ3メートル)が建立され、当時の名残を伝えている[10][20]。また夷石興行は社名を「有限会社いせきビル」と改め、西5条南13丁目の第2いせきビルに本社を移し、不動産業務を行っている。2012年(平成24年)9月30日、建物の老朽化によりCINEとかちプリンス劇場が営業を停止したため、シネマ太陽帯広が同市に残る唯一の映画館となった。

脚注・出典[編集]

  1. ^ a b 帯広映画上映記録/1970年(昭和45年)9月 (PDF) (NPO十勝文化会議)
  2. ^ a b c d e f g h “十勝20世紀「いせきグループ」”. 勝毎ジャーナル (十勝毎日新聞社). (2000年5月8日). http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/20keizai/12.html 2013年11月15日閲覧。 
  3. ^ 上野敏郎 (2006年7月10日). “大正時代の映画館”. トボトボある記. 上野敏郎 - 十勝とボクと映画-. 2013年11月15日閲覧。
  4. ^ 北海道”. 全国主要映画館便覧(大正後期編). みつ豆CINEMA. 2013年11月15日閲覧。
  5. ^ a b 第199回バーチャル市議会「大衆文化 - 帯広市民と映画館について」”. 上野敏郎のバーチャル市議会. 帯広シティーケーブル (2005年7月24日). 2013年11月15日閲覧。
  6. ^ 浦幌町史 概要”. 浦幌町. 2013年11月15日閲覧。
  7. ^ 昭和7年の北海道の映画館”. 中原行夫の部屋(原資料「キネマ旬報」). 2013年11月15日閲覧。
  8. ^ a b 幕別町で作曲家・万城目正について講演”. 本別ブログ. ふるさと・東京本別会 (2012年2月18日). 2013年11月15日閲覧。
  9. ^ 帯広映画上映記録/1950年(昭和25年)6月 (PDF) (NPO十勝文化会議)
  10. ^ a b “歴史語るサルのモニュメント ポポロビル駐車場に”. 帯広めーる (十勝毎日新聞社). (2004年8月12日). http://www.tokachimail.com/obihiro/040816index.html 2013年11月15日閲覧。 
  11. ^ 出典は『映画年鑑 戦後編 別冊 全国映画館録 1960』日本図書センター、1999年。同文献を出典とする1960年の映画館(北海道地方)「消えた映画館の記憶」を参照した。
  12. ^ a b “さようなら キネマ館(中)”. 勝毎ジャーナル (十勝毎日新聞社). (2003年11月26日). http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/03kinema/2.html 2013年11月15日閲覧。 
  13. ^ 上野敏郎 (2006年8月1日). “「大草原の渡り鳥」と「おけさ渡り鳥」のロケ”. トボトボある記. 上野敏郎 - 十勝とボクと映画-. 2013年11月15日閲覧。
  14. ^ “わたしの十勝「菅原和博さん」(シネマアイリス代表)”. 北海道新聞帯広支社 (北海道新聞社). (2011年6月22日). http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/watashino_tokachi/20110622.html 2013年11月15日閲覧。 
  15. ^ 帯広映画上映記録/1992年(平成4年)11月 (PDF) (NPO十勝文化会議)
  16. ^ 帯広映画上映記録/1997年(平成9年)4月 (PDF) (NPO十勝文化会議)
  17. ^ 帯広映画上映記録/2001年(平成13年)9月 (PDF) (NPO十勝文化会議)
  18. ^ a b “キネマ館閉館「思い出の場所」「寂しい限り、最後のとりで…」80年、銀幕の歴史に幕”. 帯広めーる (十勝毎日新聞社). (2003年10月16日). http://www.tokachimail.com/obihiro/031020index.html 2013年11月15日閲覧。 
  19. ^ 出典は日本映画製作者連盟配給部会『映画年鑑2000別冊 映画館名簿』時事映画通信社、1999年。同文献を出典とする2000年の映画館(北海道地方)「消えた映画館の記憶」を参照した。
  20. ^ “まちマイNEWS 帯小・北栄編 今日の話題「教育」いちマイ”. 十勝毎日新聞 (十勝毎日新聞社). (2013年1月22日). http://www.tokachi.co.jp/feature/201301/20130122-0014589.php 2013年11月15日閲覧。 

外部リンク[編集]