中津山藩

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中津山藩(なかつやまはん)は、江戸時代陸奥国に存在した仙台藩内分支藩。藩主は伊達村和1代のみであった。藩庁は桃生郡中津山所(現・宮城県石巻市)に置かれた。

本項においては、村和の直系子孫である仙台藩一門第九席・川崎伊達家についても併せて記述する。

『桃生町史』では寺崎藩(てらさきはん)の名を採っている。これは藩庁・中津山所の縄張が中津山・寺崎の両村域にまたがっており、その町場は気仙道の寺崎宿にあたることから、町場の名称を優先したものである。

なお、一部にこの藩の名称を水沢藩とするものがあるが、これは藩主・村和が立藩直前まで水沢伊達家当主(当時のは顕孝→村任)であったために、水沢伊達家領の俗称である「水沢藩」の名と、新規に立藩された正式な藩である「中津山(寺崎)藩」とを混同したものである。

概要[編集]

元禄8年(1695年)6月19日、仙台藩第4代藩主伊達綱村は、水沢伊達家第5代当主であった同母弟の伊達村任に桃生郡中津山ほか3万石を分知して、新たに内分分家を立てることを幕府に申請する。7月6日に中津山藩の発足が決定すると、この時点では男子がいなかった村任は、甥の吉之助を養子に迎えて水沢伊達家の家督を譲り、自身は村和に改め、水沢を離れて江戸に出府した。

中津山藩3万石の内訳
  • 知行地 1万5千石
    • 桃生郡 7か村(中津山・寺崎・牛田・倉埣・脇谷・永井・太田)
    • 栗原郡 4か村(猿飛来・平形・岩崎・大原木)
  • 仙台本藩蔵米 1万5千石

12月18日に従五位下・美作守に叙任され、翌元禄9年(1696年)1月11日に六本木に藩邸が落成し(立藩当初は仙台藩の麻布下屋敷を仮藩邸としていた)、10月28日に中津山所を藩庁とすることが公的に確認されるなど、次第に中津山藩は藩としての体裁を整えていった。ところが元禄12年(1699年)9月9日、江戸城に登城する途上で、供回りの者が行列を横切った旗本岡孝常と刃傷沙汰に及び、手傷を負わせたため(土器町事件)、9月26日に謹慎を命じられた後、改易に追い込まれる。村和の身柄は兄の綱村預かりとなり、中津山藩への分知は仙台藩領に戻され、六本木の藩邸も仙台藩の所有地となった。

川崎伊達家[編集]

中津山藩の改易後、村和は宮城郡野村にて20年間の逼塞を余儀なくされ、赦免から3年後の享保7年(1722年)に死去する。同年、村和の長男の村詮が一門第九席に列し、柴田郡川崎要害を拝領して知行2千石を与えられ、以後幕末に至るまで同地を所領とした。これを川崎伊達家と称する。

最後の川崎領主である第7代当主・邦賢は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際に浜通りおよび笹谷口に派兵した。敗戦後、所領を失うと小学校の教員になったが、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると、子の基煕・煕信と共に旧家臣団を率いて西郷討伐のため従軍し、凱旋後は東京に住んで伊達伯爵家(本家)の剣術師範となった。

歴代藩主および当主[編集]

中津山藩主[編集]

伊達家

3万石(外様

  1. 伊達村和(むらより)〔従五位下、美作守〕 - 仙台藩第3代藩主・伊達綱宗の次男

川崎伊達家当主[編集]

  1. 伊達村詮 - 村和の長男
  2. 伊達村敏 - 岩出山伊達村泰の子。村和の婿
  3. 伊達村煕
  4. 伊達村賢 - 水沢伊達村儀の子。村煕の婿
  5. 伊達宗和 - 岩出山伊達村則の子。村賢の婿
  6. 伊達邦和 - 岩出山伊達宗秩の子。宗和の婿
  7. 伊達邦賢

系図[編集]

伊達綱宗
 
 
 
[中津山藩]
村和1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[川崎伊達家]
村詮1
三沢村清登米伊達村倫
 
 
 
村敏2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
村煕3宮床伊達村烈
 
 
 
村賢4
 
 
 
宗和5
 
 
 
邦和6
 
 
 
邦賢7
 
 
 

参考文献[編集]

  • 『水沢市史』3上 近世上(岩手県水沢市、1981年)
  • 『桃生町史』第1巻(宮城県桃生郡桃生町、1985年)
  • 『川崎町史』(宮城県柴田郡川崎町)
    • 史料編(1972年)
    • 通史編(1975年)