嶋正利
| 嶋 正利 (しま まさとし) |
|
|---|---|
| 生誕 | 1943年8月22日(68歳) |
| 教育 | 東北大学理学部卒業 |
| 業績 | |
| 専門分野 | 情報工学 |
| 勤務先 | 日本計算機販売 静岡県警察 リコー インテル ザイログ 会津大学 AOIテクノロジー |
| プロジェクト | Intel 4004の開発 Intel 8080の開発 Z80の開発 Z8000の開発 |
| 受賞歴 | 京都賞先端技術部門(1997年) Inventor of MPU(1998年) |
嶋 正利(しま まさとし、1943年8月22日 - )は、日本のマイクロプロセッサアーキテクト。
会津大学教授、AOIテクノロジー株式会社代表取締役社長などを歴任した。
目次 |
[編集] 概要
世界初の商用マイクロプロセッサ「Intel 4004」の設計開発者の一人である。現在にいたるマイクロプロセッサの系譜の祖を設計した。Intel 4004のほかにも、「Intel 8080」、「Z80」、「Z8000」などの画期的なプロセッサの開発に携わっており、世界のコンピュータ産業に多大な影響を与えた。
[編集] 来歴
[編集] 生い立ち
1943年、静岡県静岡市に生まれた。静岡県立静岡高等学校を卒業後、東北大学理学部化学第二学科に進学した。化学を専攻していたが、同じ研究室の先輩から「嶋、世の中には、電子で動く、電子計算機があるんだ。いろんな物質の構造式を見つけ出すソフトもある」[1]との話を聞かされ、コンピュータに関心を持つようになった。
[編集] 日本計算機販売
1967年、プログラミングをやりたいと考え、日本計算機販売に入社した[1]。しかし、当初は事務ソフト部門に配属されたことから不満を持ち、上司に開発部門に異動させるよう訴えるようになった[1]。いったんは静岡県警察に転職し科学鑑識課に勤めるも、3ヶ月後の1968年春に日本計算機販売に復帰した。そして「Intel 4004」を開発することとなる[2]。
[編集] Intel 4004
4004は元々ビジコンが計画していた「ストアードプログラム式の高級電卓」のために必要なチップとしてインテルと共同開発したものであり、嶋はビジコンの社員として開発に関わった。インテル社史には4004の設計開発者はフェデリコ・ファジン、マーシャン・ホフ(テッド・ホフ)、スタンレー・メイザーであるとされ、顧客会社の出張社員である嶋の名はなかったが、1984年に設計を行った一人であると追認された。
1969年10月、嶋はインテルの本社を訪れ「十進の電卓を作りたい」[3]と相談した。インテルのテッド・ホフは「十進のコンピュータはむずかしいと思う」[3]として「二進(法)コンピュータを作ろうじゃないか」[3]と提案し、その開発をスタートさせた。しかし、翌年4月に嶋がインテルを再訪したところ、開発が全く進んでいないことを知り「莫大な開発費を支払ったのに、何もやっていないとは何ごとかッ!」[3]と激昂した。インテル側から「今までプロセッサーを手がけたことがない」[3]との釈明があり、やむなく嶋が論理回路やテストプログラムの作成、さらにパターンチェックなども手がけることとなった。この間、プログラム、論理、回路、レイアウトといったさまざまな分野の知識を、独学で習得したとされる[3]。
嶋によると、4004のロジックはほとんど一人で書いた、という。ビジコン側は当初マクロな命令による電卓の実現を考えていた。4ビット演算というマイクロな命令を使い、ソフトウェアで電卓の機能を実現するというアイディア自体は嶋のものではなくテッド・ホフによる。しかし、テッド・ホフがまとめたのは演算機能を実現できるという思いつきのレベルまでであり、入出力についてのデザインからプロセッサとしての実装まですべて嶋の手によるものである。当時、16ビット以上のCPU設計が主流であり、4ビットCPUの論理設計をしたがる者がいなかった。そのため、嶋に白羽の矢が立ったと語っている[4]。
また、当時は国内産業(この場合半導体メーカ)育成のために、LSIの輸入に際しては手続きが厳しかったにもかかわらず、通関審査を通す時に、送り状に「CPU」とあるがこれはなんだ、となった際に『誇らしい気持ちもあって「これが世界で初めてのワンチップ・コンピュータなんだ」とやっちゃった。だから事態が紛糾しちゃったってところがある』という(コンピュータといえば小さくてもミニコンピュータというのが常識だった当時のことである)。四日間日参して説明し、通関審査をパスしたという[5]。(ただし、これは嶋ではなく、当時のビジコン別社員[6])
[編集] インテル
嶋は4004の開発後ビジコンを退職しリコーに転職。インテル社は次期製品として8008を開発。その性能向上にあたり特許戦略および他社による競合製品開発阻止のために、当時インテルのCEOだったロバート・ノイスが嶋をスカウトし1972年インテルに転職。8080では当初より主任設計者を務めて4004の時と同様にほとんど一人でロジックを組み上げ、8080のパターンの隅には嶋家の家紋が刻まれている[註釈 1]。その後ファジンらCPU開発チームの主力メンバーと共にスピンアウトしザイログ設立に加わった。
1997年11月25日に京都賞(先端技術部門)を受賞。AOIテクノロジーの代表取締役社長をしていた。
日本初のコンピュータ専門大学である福島県立会津大学で指導していた。
[編集] 人物
アメリカ合衆国で働いているころは、人種差別に悩まされたと語っている[7]。また、インテルに勤務していた際、他のアジア人技術者が「嶋の給料は少なすぎる」[7]と指摘し、嶋に代わって経理部門に抗議してくれることもあったという。これらの経験を振り返り、嶋は「欧米の人たちと比べても、自分が劣るなどと決して思ったことはありません。機会さえあれば日本人も創造的開発はできます」[7]と述べている。
また、「LSIを組み合わせれば、マイクロプロセッサーができるのは当然」[3]と考えていたため、「Intel 4004」についての特許は取得しなかったという[3]。
[編集] 主な論文・著書
- 1972年 "The MCS-4 An LSI Microcomputer System" with others, IEEE
- 1974年 "An N-Channel 8-Bit Single Chip Microprocessor" with others, IEEE, ISSCC
- 1976年 "Z-80 Chip Set Heralds Third Microprocessor Generation" with others, Electronics
- 1979年 "Demysitfying Microprocessor Design" IEEE
- 1996年 "The History of the 4004" with Hoff, M. E., Faggin, F. and Mazor, S., IEEE Micro
- 1987年8月 「マイクロコンピュータの誕生:わが青春の4004」岩波書店 ISBN 978-4000060219
- 1995年2月 「次世代マイクロプロセッサ」日本経済新聞社 ISBN 978-4532400668
- 1999年10月01日 「マイクロプロセッサの25年 電子情報通信学会誌Vol.82 No.10」電子情報通信学会 pp.997-1017
[編集] 註釈
- ^ 8080のパターンの画像でも、バージョンによるか、複数枚あるうちの別のフォトマスクの画像であったり別のパターンが重なっていたりなどで、確認できなかったり確認が難しいものもある。8080Aの、フォトマスクではなくチップの写真にわかりやすく確認できるものがあり、「Intel 8080A」のロゴと同じ短いほうの辺の反対側。
[編集] 脚注
- ^ a b c 嶋正利「直訴と独学で作った世界初のCPU」『文藝春秋』88巻11号、文藝春秋、2010年9月1日、337頁。
- ^ 「計算機屋かく戦えり」ハードカバー版 pp. 428〜430(就職以降について)
- ^ a b c d e f g h 嶋正利「直訴と独学で作った世界初のCPU」『文藝春秋』88巻11号、文藝春秋、2010年9月1日、338頁。
- ^ NHKスペシャル DVD 電子立国 日本の自叙伝 第5回 8ミリ角のコンピューター
- ^ 単行本「電子立国日本の自叙伝 完結巻」pp. 130〜133
- ^ NHKスペシャル DVD 電子立国 日本の自叙伝 第5回 8ミリ角のコンピューター
- ^ a b c 嶋正利「直訴と独学で作った世界初のCPU」『文藝春秋』88巻11号、文藝春秋、2010年9月1日、339頁。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 「計算機屋かく戦えり」(アスキー出版局、遠藤諭)ISBN 4-7561-0607-2 (新装版 ISBN 4756146783)