崩れ落ちる兵士
崩れ落ちる兵士(くずれおちるへいし、Falling Soldier)とは、「1936年9月5日に報道写真家ロバート・キャパがスペイン内戦に従軍した際にコルドバのセロ・ムリアーノCerro Murianoで撮影したもの」として雑誌に発表された写真。
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概説 [編集]
スペイン内戦(スペイン戦争)は、左派の共和国政府に対して、ナチスなどが支援した反乱軍が起こした戦争で、それに対して義勇兵などが集まって共和国軍として戦ったものであるが、この「崩れ落ちる兵士」は、共和国政府側の兵士が命を賭けて反乱軍と戦っている最中に銃弾で倒れたところを写したものだ、と、この写真が雑誌で公表された当時から信じられ、反ファシズムのシンボルのように扱われた写真であり、22歳の無名の青年だったキャパを一躍有名にした写真である。
写真がまず世に出たのは、フランスの「VU」誌の表紙に採用されたことによる。正式な題名はLoyalist Militiaman at the Moment of Death, Cerro Muriano, September 5, 1936「死の瞬間の人民戦線兵士」あるいは「人民戦線兵士の死」。この写真が世の中に出たのは1936年9月23日である[1]。この時には、同じ場所で撮られたと思われる2枚の写真があった。一枚が世界的に有名になったもので、ここで説明されている写真である。もう一枚は、別の兵士が倒れている写真である。
またこのフランスの雑誌に掲載された翌年、米国の写真週刊誌で、当時すでに100万部の発行部数を誇り、当時世界で最も影響力をもちつつあった雑誌「LIFE」の1937年7月12日号に掲載され、当時全く無名の22歳の青年でそれ以前に戦争取材をしたことがなかったキャパの名を一躍有名にした。この時には、一枚のみが掲載された。その写真のタイトルは「DEATH IN SPAIN : THE CIVIL WAR HAS TAKEN 500,000 LIVES IN ONE YEAR」とボールド(太文字)で書かれていた。写真下のキャプションには小さな活字で「ROBERT CAPA'S CAMERA CATCHES A SPANISH SOLDIER THE INSTANT HE IS DROPPED BY A BULLET THROUGH THE HEAD(キャパのカメラは兵士の頭が銃で撃ち抜かれる瞬間をとらえた)」との文章が添えられていた[1][2]。
「当時の戦場写真は4×5インチのフィルムを用いて遠くから撮られた動きの乏しい写真が普通だったが、キャパは機動性と速写性を確保するため35ミリフィルムでの撮影が可能なライカを用いて戦場の中で撮影した」また「兵士が頭を撃たれて倒れる瞬間を兵士の前方至近距離から撮影した極めて珍しい写真」また「(当然)キャパ自身が撮影した」と長らく信じられてきたものであり、また今でも特に調査も行わずに従来の説をそのまま信じている人も多い。
この写真はネガ(原版)が存在していない。いくつものプリントがある中で、MOMAに収蔵されているプリントがネガに最も近いものだとされている[1]。
真相論争と謎解き [編集]
あまりに「完成度」が高いことや、頭部に負傷がはっきりと確認できないこと、更にキャパ自身がこの写真について語りたがらなかったことから、本当に撃たれた瞬間を撮った写真であるかどうかについて、真贋論争が60年にわたり続けられてきた。偽であるとの説明の主なものは、足元が滑り転倒した場面にすぎないとするもの、兵士に演技をさせた写真であるとするもの、などがある。
1996年にスペインの歴史家マリオ・ブロトンス・ホルダが、被写体の割り出しを行い、被写体の肩から下がる弾丸ケースがアルコイ守備隊の司令官が特別にデザインしたものであるのに気づき、セロ・ムリアーノの戦いで死亡したアルコイ守備隊員を調査し、フェデリコ・ボレル・ガルシアという名の兵士だと判断した。そして、弟エベリスト・ガルシアが認めた、とされた。
だが「La sombra del iceberg」というドキュメンタリーは、この「崩れ落ちる兵士」は“やらせ”で、ボレルは写真の人物ではないとした。[3]
2009年7月17日、スペイン紙ペリオディコ(el Periodico[4])が、この写真は実際には、セロ・ムリアーノから約56キロ離れた町であるエスペホ(Espejo)付近で撮影されたとする記事を掲載した。そしてエスペホ付近で交戦が行われたのは1936年9月22日~25日のみであったので、この写真は本物の前線からは離れた場所で撮られたものと断定した[5][6]。
実際の撮影場所がエスペホだった、ということは、スペインのパイス・バスコ(País Vasco)大学[7]オーディオ・コミュニケーション学部の映像論を専門とするホセ・マニュエル・ススペレギ(José Manuel Susperregui)教授[8][9]が発見した[10][11][1]。ススペレギ教授は、2009年6月に出版したSombras de la Fotografía ("Shadows of Photography")[12]の中でこのことを明らかにした。エスペホというのはスペインの小さな街であるが、そこには高さ30mほどの丘があり、そこが撮影の場所だと特定されたのである[1]。その場所を同定するのに用いられたのは、43枚の一連の写真であった[1]。43枚の写真はキャパの遺品整理係の者が、キャパの遺品の中から発見し、一挙にではなく少しづつ公開してきたものであり、それらの中にはまさに「崩れ落ちる兵士」に写っている白いシャツと同一服装・同一容姿の人物、および同じ風景を含んでいるものがある[1]。白いシャツの男が、仲間たちと並んで、笑いながら両手を挙げてポーズをとっている写真も含んでいる[1]。それによって「崩れ落ちる兵士」と43枚の写真は、同一日に同一の場所で撮影されたものだと判った[1]。(白いシャツの男は頭にナイトキャップのような帽子(サンタの帽子に似たような帽子)もかぶっている。)おまけに43枚の写真に写っている兵士の中で白いシャツを着ているのはこの男一人だけであって、他の誰も白いシャツを着ていないので、男の同定はたやすい[1]。
43枚の写真の中に、周囲の山の稜線がはっきりと写っているものが複数枚あり、その稜線の形が撮影場所を正確に特定するための決め手となった[1]。「崩れ落ちる兵士」では周囲の山の稜線ではっきりしているものが少なくて場所を特定できなかったのだが、同一の場所で撮影された多数の写真が発見され、そこに明瞭な稜線が多数得られたことで撮影場所の特定が可能になったのである[1]。写真に写っている山並みのうち、右手の手前に見える山並みはシエラ・デ・モンティージャ(モンティージャ山地)、左の奥に見える山並みはシエラ・デ・カブラ(カブラ山地)という。この2つの山並みと撮影場所になったオリーブの丘に挟まれた平野部はジャノ・デ・バタン(バタン沃野)と呼ばれている[13]。写真の平野がジャノ・デ・バタンであることを初めて指摘したのは、アギラール・デ・ラ・フロンテーラという町にあるビセンテ・ヌーニェス中学のアントニオ・アギレラという中学生であり、それは2009年3月のことであった[14]。
沢木耕太郎は、(1)写真が撮影されたとされる日の前後ではこのエスペホ周辺地域での戦闘行為が無かったこと、(2)写真に写っている銃の状態が弾薬未装填の状態(銃がすぐには撃てない状態)であること、から、この「崩れ落ちる兵士」は、実際には戦争状態を撮影したものではなく、当時エスペホにおいて行われていた訓練(演習)の場面を撮影したものだ、と指摘した[1]。
この写真が発表されたのは1936年9月23日だったので、もしこの写真が本当に戦争が撮影されたものだとしたら、この9月23日以前に、このエスペホの丘で戦争が起きていなければ撮影できなかったことになる[1]。だが、戦史研究家パトリシオ・イダルゴの調べによって、9月23日以前のエスペホにおいては戦闘は一切なかったこと、反乱軍がエスペホに攻撃してきたのは9月23日よりも後の話であったことが判った。9月23日以前にエスペホで起きたことといえば、せいぜい偵察機が一機飛来したことだけだった[1]。これによって、実は写真に写っている兵士というのは、戦闘中だったわけでもなく、ただの訓練中にすぎなかったので、敵に撃たれたわけでもない、と判明した[1]。「崩れ落ちる兵士」に写っていた兵士というのは実は、ただの、後ろに転びそうになっている兵士にすぎなかったわけであり、この兵士は命を落としてもいなかったのである[1]。
ではなぜフリードマンが真相を正直に語ることができなかったかと言うと、それは次のように推定できる[1]、とNHKは分析した。あの時代を生きたひとりのユダヤ人であったフリードマンにとって、ナチス政権やヒトラーは敵だった。ハンガリーにもナチスのファシズムの手が伸びてユダヤ人は迫害されたので、ハンガリーのユダヤ人青年フリードマンはハンガリーを逃れてパリに出て、カメラの力でなんとかしてナチズムと戦おうとした。インチキを重ねて成立してしまったこの写真だが、その写真がひとたびメディア上で反ファシズムのシンボルとして用いられるようになり社会的に大きな影響力を持つものになってしまったことで、ファシズムと戦いたいフリードマンは、この写真成立時の真相を告白することができなくなり、口をつぐんだと推察される[1]。
ところで、43枚の写真はそれぞれ縦横の比率(フォーマット)によってライカで撮影されたものか、ローライフレックスで撮影されたものか判別できる。ローライフレックスの写真は縦横の比率が1:1の正方形になるからである。 沢木は、原版のネガに最も近いとされる、MOMA収蔵の「崩れ落ちる兵士」のプリントの縦横の長さの比率(フォーマット)を分析したところ、撮影距離と、プリントの縦横の比率からライカで撮影した仮定すると縦が5%ほど足りず、ライカで撮影されたものではあり得ず、ローライフレックスで撮影したものを、ライカのサイズに似せてカットしたもの、と指摘した、
この日、キャパはライカを使っていたので、実はこの「崩れ落ちる兵士」はキャパが撮影したものではない、と指摘した[1]。ゲルダ・タローがローライフレックスで撮ったものである[5]、と指摘した。
43枚の写真を細かく分析するために、沢木耕太郎は衛星の地形データや古地図を基に、CGの専門家にも依頼してエスペホの地形をコンピュータ上で正確に再現した。すると、それによって得られたエスペホの丘から見えると計算される稜線の線が、「崩れ落ちる兵士」の中に写っている数少ない、特徴的な稜線と完全に一致した[1]。43枚の写真に写っている稜線の分析などから、これらの写真はエスペホの丘の南側斜面で撮影されたものだと判明した[1]。そして、この兵士はフェデリコ・ボレル・ガルシアとは別人[5]、とした[5]。
43枚の写真には、銃を持ち丘を走る兵士が写っている、ライカで撮影された一枚がある(仮に「走る兵士」と呼ぶ)。沢木は、その写真に写る<<走る兵士>>の姿の背後に、わずかではあるが「崩れ落ちる兵士」の白いシャツを着ている男の体の一部が、「崩れ落ちる兵士」とほぼ同じ体勢で写っていることに気づいた。2枚の写真に同一人物がほぼ同じような倒れかけの姿勢で写っているのだから、2枚はほぼ同じタイミングで撮影されたことになる[1]。
コンピュータグラフィックスを用いた分析などにより、被写体(丘を走る兵士)とカメラの間の距離は5mと推定された。それはそれでよいのだが、問題なことに、「走る兵士」を写したカメラは、その写真に写った周囲の稜線などの分析によって、「崩れ落ちる兵士」を撮影したカメラの右側1.2mの場所にあったことが判明した[1]。しかも2枚の写真に写っている被写体(人物)の移動状態から判断するに、「崩れ落ちる兵士」と「走る兵士」の2枚は、ほんの0.86秒のタイミングのズレで撮影されたと推定された。ここでもし、これらの2枚の写真が撮影したのが一人のカメラマンだったとすると、無理が生じる。当時のカメラの性能・操作性から判断すると、1枚の写真を撮影しておいて、続いて0.86秒の間に1.2m移動してもう一枚別の写真を撮影する、などということはとても無理だと判断されるからである[1]。
つまりこれは、2人のカメラマンがこの丘に並んで撮影していた、ということを意味する。そしてその2人というのは、フリードマン(=ロバート・キャパ)とゲルダ・タロー(=キャパの恋人)だと推定される。というのはこのころにこの周辺の路上で他の人によって撮影された多数の写真の一枚に、偶然、ゲルダとフリードマンが一緒に歩いている姿が映っているものがあり、それが現在まで残っているからである。つまり、「崩れ落ちる兵士」の撮影をした時、フリードマンとゲルダは一緒にいたと考えるのが妥当なのである[1]。
キャパはライカを使っていたとされるので、結論として、「本当は<<走る兵士>>のほうを撮ったのがキャパであり、その0.86秒後に <<崩れ落ちる兵士>>を撮影したのは、実はゲルダ・タローだった」と、沢木耕太郎は推定した[1]。
すると結局、フリードマンの出世作であったこの「崩れ落ちる兵士」という写真は、さらに嘘が重ねられて成立したものだということになり、フリードマンの背負ってしまったものはさらに複雑なものだったことになる。つまり、フリードマンは、本当は戦闘が全くなかった場所で撮影した写真によって「戦場カメラマン」という名声を獲得してしまったのであり[1]、しかもその写真を撮影したのはフリードマンではなかったのである[1]。[15]。
LIFE誌に「崩れ落ちる兵士」が掲載されて有名人になる直前に恋人のゲルダが戦場で死亡してしまったフリードマンは、本物の戦場で撮影をしたこともない自分に、2重の「ひけめ」を感じることになり、その心理的な負債を少しでも返すために、その後の人生で彼は、命を顧みずに本物の戦場へと出てゆかざるを得なくなった、と推定される、というのがNHKの番組によるロバート・キャパの人生の真相の分析である[1]。
関連項目 [編集]
脚注 [編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad NHK、沢木耕太郎推理ドキュメント「運命の一枚〜“戦場”写真 最大の謎」(2013年2月3日放映)
- ^ 『ロバート・キャパ写真集 Photographs』p257 の沢木耕太郎解説では「ロバート・キャパのカメラが、コルドバで一人のスペイン共和国軍兵士が頭部を弾丸で貫通され倒れる瞬間をとらえた」と訳している。また、同書解説内で「この写真は演じられたものであろう」と評している。
- ^ ヤラセ説(演技説)では、同じような2枚の写真があった事を重視している。雑誌「VU」1936年9月23日号には、ほぼ同じ場所で兵士が倒れている別の写真も載っていたのである。(上段に「崩れ落ちる兵士」、下段にもう一枚の(別人と思われる)「崩れ落ちる兵士」の構成となっている) 沢木耕太郎『キャパの十字架』 p33、文藝春秋、2013年
- ^ [1] 電子板
- ^ a b c d 沢木耕太郎 「キャパの十字架」『文藝春秋』2013年1月号、p433、文藝春秋。"New Doubts Raised Over Famous War Photo" By LARRY ROHTER, The New York Times, August 17,2009。
- ^ “ロバート・キャパ「崩れ落ちる兵士」にやらせ疑惑、スペイン紙”. AFPBB News. (2009年7月18日) 2013年2月17日閲覧。
- ^ [2][3] Universidad del País Vasco ("University of the Basque Country")
- ^ [4]
- ^ [5]
- ^ 沢木耕太郎 「キャパの十字架」『文藝春秋』2013年1月号 p.434
- ^ 沢木耕太郎 思索紀行 キャパへの道 NHK BSプレミアム 2013年3月25日 午後11:00-11:50放映 22分38秒~22分42秒(ただし、勤務先は「サンセバスチャン大学」となっている。)
- ^ Sombras de la Fotografía ("Shadows of Photography"), by José Manuel Susperregui País Vasco大学出版 ISBN 978-8498602302
- ^ 沢木耕太郎 「キャパの十字架」『文藝春秋』2013年1月号 pp.452-453
- ^ 沢木耕太郎 「キャパの十字架」『文藝春秋』2013年1月号 pp.450-451
- ^ 注:生活費も稼げない若いカメラマンだったフリードマン(ロバート・キャパ)に、架空の有名カメラマン「ロバート・キャパ」に化けて写真を高く売ることを提案したのは、ユダヤ人同士の恋人ゲルダ・タローだったが、そのフリードマンに喰ってゆく手段として戦場カメラマンになることを提案したのも、また内戦の地スペインへと誘ったのも、そしてスペインのエスペホの丘で転びそうになった兵士を撮影したのも、すべてゲルダだった、ということになるわけである