島田清次郎

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島田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年(明治32年)2月26日 - 1930年(昭和5年)4月29日は、日本の小説家文壇で有名であった時代には「島清」という略称でも呼ばれた。

目次

[編集] 略歴

石川県石川郡美川町(現白山市)の生まれ。早くに父(回漕業を営む)を亡くし、母の実家で育つ。母の実家は金沢市内の茶屋街で貸座敷も営み、この環境が後の島田の文学と性格(特に女性関係)に影響してくる。茶屋街で嫌々客をとらされる女性達や貧乏故に恋愛も許されない若者を身近に見ながら一方で政治家・官僚などがロクに政治を行わずに貧民が日本に多くいることへの憤りを募らせたことが代表作となる『地上』の執筆動機となる一方で、女性関係に奔放で複数の女性を「モノ」のように扱う性癖も持ち、後述するように告訴騒ぎにまで発展する様になる。

野町小学校を優秀な成績で卒業し、石川県立金沢第二中学校に進学。ここでも良い成績をおさめていたが、教師に対して反抗的な態度をとることも多く停学処分を数回受けている。13歳の時には自分の天才が世に認められないとの理由で、自殺を図った。幸いにも未遂に終わったものの、自ら「天才に学校の器が合わない」と感じて東京の明治学院普通部に転入。ところが祖父が投資による失敗から失踪して金銭的に苦境に立たされたことから金沢第二中学校に復学、更に金沢商業本科に転校する。この頃から文学に熱中するが、会社員にしたい叔父の怒りを買った挙句に学費未納により退学処分となる。このため母と共に石川県でも最低の貧民街に暮らしながら、島田に好意を持っていた宗教家暁烏敏の紹介で『中外日報』で執筆者として糊口を凌いでいた。

1918年夏から書き始めた自伝的小説『地上』の原稿を中外日報主筆、伊藤証信の推薦により生田長江に送り絶賛され、長江の紹介で、新人の書き下ろしをシリーズ的に出版していた新潮社から出版[1]。これが実質的なデビュー作となり、実売部数50万部とも言われ、江馬修の「受難者」、賀川豊彦の「死線を越えて」と並ぶ大正期の代表的なベストセラー(文芸書部門)となる。

『地上』の成功に気をよくした島田は「精神界の帝王」と自らを思いこんでいたところに世間からの高い評価を受けて、傲慢な振る舞いをすることが多くなった。加えて社会主義運動・理想社会思想に傾倒し、ソビエト的な理想社会主義を掲げ全国をアジテーションして周る活動を行いながら『地上』を第4部まで出版。この頃、堺真柄に好意を持ち婚姻を申し込もうとしたが、父親からはぐらかされて相手にされなかった。印税が多く入るようになって生活も豪奢となった上に奔放な女性関係も文壇関係者から嫌われる原因となり、次第に文壇では孤立していった。それでも長江や徳富蘇峰など、島田の才能を高く評価する向きも少なくなかった。

1922年に出版社の薦めで船でアメリカやヨーロッパを周る旅に出発[2]。アメリカではクーリッジ大統領とも面会、国際ペンクラブ初の日本人会員となった。帰国後に『地上』第5部として、長編小説『改元』を出版。海外視察後の高揚・膨張した覇気のもと、世界革命・宗教改革を標榜する一方で、周囲の無理解や嘲笑に苦しみ焦燥し、益々傲慢な振る舞いが狂的なまでにエスカレートし、生田ら数少ない文壇での支持者もこの頃には離れていった。

人気に幻惑された島田はファンレターをくれた海軍少将の娘・舟木芳江を半ば強引に誘いだし、泊まりで葉山に旅行に向かうが、これを監禁・陵辱・強姦を行ったとして舟木家側が告訴。幸いにも恋文の存在や徳富蘇峰らの証言で無実だということになり告訴も取り下げられたものの、この事件は大きくマスコミに取り上げられ理想主義を掲げた時代の寵児が女性スキャンダルで汚れ、一気に凋落することとなった。そのため島田の作品は全く売れなくなり、出版社からも出入りを禁じられる[3]。1924年7月末夜半、巣鴨地蔵尊に近い路上を池袋に向け人力車で通行中、折りしも爆弾テロ警戒中の警察官に職務質問され、帝国ホテル従業員に対する暴言、並びに日比谷公園内で右翼壮士により暴行を加えられ血だらけとなったことなどを口にしたため、巣鴨署に拘引。精神鑑定の結果、統合失調症と診断され、巣鴨庚申塚の保養院(私立病院=大正大学に隣接 池田隆徳院長。現在の松沢病院ではない)に収容された。収容中に統合失調症は回復したと言われるが、結核と栄養失調に苦しみながらも執筆を継続。1930年4月29日肺結核で死去。享年31。この間「明るいペシミストの唄」など詩篇が発表されたりもしたが、死の二ヶ月前、絶筆となった自伝的長編小説「母と子」を書き上げるも未発表に終わる。

墓は故郷石川県白山市市営共同墓地にあり、「南無阿彌陀佛」と刻まれた墓の前に、虚しくも「文豪島田清次郎の墓碑」とある。島田には、別れた内縁の妻・豊(旧姓小林)との間に一子、良輔があったが、早稲田大学在学中の昭和20年8月15日に夭折した。豊は再婚し藤田姓となり成城学園から熱海にと転じ長命した。

美川町は、1994年、当時日本で唯一の恋愛小説限定の文学賞である島清恋愛文学賞を制定し、町村合併以降も引き継がれている。

[編集] 著作

  • 『死を超ゆる』 - 『中外日報』で執筆者として働いていた頃に書いたデビュー作。
  • 『地上』 - 代表作で「第1部 地に潜む者」「第2部 地に叛く者」「第3部 静かなる暴風」「第4部 燃ゆる大地」の全4部構成(新潮社刊)。小学校から金沢商業退学までの人生経験を基に、貧困の中で恋愛や社会の不正・不平等に目覚める思春期の少年を描いた青春小説としてスタートした[4]
    第3部以降は世界同時革命を目指す思想家の物語となり、第3部では主人公が中国を、第4部では欧州各地をまわって革命を煽るストーリーとなっている。作中の大半のシーンが主人公の感傷的なアジ演説で占められ、小説として破綻した内容になっている[5]
    「地上」第1部は昭和32年、吉村公三郎監督、川口浩主演で、大映により映画化されており、後に角川映画でDVD化されている。
  • 『改元』 - 島田が洋行から帰国した後に、『地上』の続編として発表。「第1巻 我世に勝てり」「第2巻 我世に敗れたり」の2部構成。
    第2巻の原稿は大正11年に完成し「新しき太陽」というサブタイトルで出版の予定だったが、前後して舟木芳江とのスキャンダルから出版社から出入り禁止となったことから、刊行は保養院に入院後の大正13年に持ち越された。「我世に敗れたり」と言うサブタイトルは、出版した春秋社によるもの。
  • 『大望』 - 短編集 少年時代の習作を改稿
  • 『帝王者』 - 戯曲集・「閃光雑記」。
  • 『革命前後』 - 戯曲集。
  • 『勝利を前にして』 - 評論・講演録集。
  • 『早春』 - アフォリズムや雑感を集めた感想集。
  • 『母と子』 - 自伝的長編小説。未発表に終わり、石川近代文学館に原稿が保存されている。

「地上-地に潜むもの」は、清次郎が巣鴨・保養院に入院中、円本ブームに乗じて刊行された「現代長編小説全集」(昭和4~6)に収録された。菊池寛は「地上-地に潜むもの」は凡庸の筆に成る作ではないと作品を評価、蹉跌した清次郎の才を惜しんだ。その後、多くの社会主義的作品が内務省検閲により発禁の書とされたのに対し、新潮文庫には「地上-地に潜む者(第1部)」「地上-地に叛く者(第2部)」が収録され、太平洋戦争の直前まで版を重ねた。三岸節子(洋画家)、宮尾登美子(作家)は「わが青春の書」として清次郎の「地上」を挙げている。和田芳江、森山啓(作家)、平野謙 (評論家)もまた篤く清次郎を語った数少ない文学者であった。  戦後の記録としては、菊池の推薦もあり「地上-第1部」が昭和22年、扶桑社(永井荷風の『罹災日録』を出版していた=後のフジサンケイグループの扶桑社とは別)から第3部までが復刊され、人気に乗じた扶桑社は入院中の原稿である「母と子」の刊行準備もしていた。 「地上-地に潜むもの」が昭和32年に新潮社から、昭和40年代に季節社から刊行され、その後、『地上』全巻が黒色戦線社から復刻された。2007年現在、「地上」、「改元」は、黒色戦線社から出た復刻全巻セット版を、京都の三月書房で購入することが可能である。300部限定で1970年代に出版されたものである。このころ巣鴨にあった黒色戦線社・大島英三郎は「私には、清次郎がいじらしくてならないのですよ」と一言言ったという。

[編集] 評伝

作家の杉森久英は彼の評伝小説『天才と狂人の間』を執筆し、第47回直木賞1962年)を受賞した。舟木芳江が存命中だったため名前を変更しているほか、一部脚色された箇所があるとされる。

また佐藤春夫の「更生記」も島田清次郎をモデルにしている。

[編集] 映像作品

[編集] テレビドラマ

[編集]

  1. ^ 1916年に江馬修の「受難者」がベストセラーになると、出版元の新潮社には多くの文学青年が「受難者」の亜流作品を持ち込み、島田もその一人であったと、新潮社創業者の佐藤義亮が回顧録に記している。
  2. ^ この外遊は、文壇から孤立状態になって扱いに困った出版社が厄介払いのために薦めたとも言われている。
  3. ^ 1924年には金銭的にも逼迫し、文壇の知り合い宅に金の無心に現れる姿が『文藝春秋』にゴシップとして掲載されている。
  4. ^ 島田については左翼思想のために時の権力に抹殺された天才児である、という伝説が根強く囁かれているがこれは往々にして「地上」の第1部のみを読んだ者たちによる誤解と考えられる。
  5. ^ このため島田を世に出した生田は、島田の小説家としての将来を懸念していたが、図らずもそれは的中してしまう。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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