岳開先

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岳開先
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1883年[1]
死去: 不詳
出身地: 四川省成都府
職業: 軍人・政治家
各種表記
繁体字 岳開先
簡体字 岳开先
拼音 Yuè Kāixiān
ラテン字 Yue K'ai-hsien
和名表記: がく かいせん
発音転記: ユエ カイシュエン
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岳 開先(がく かいせん)は、中華民国政治家。別号は闢疆辟疆南宋の英雄岳飛から26世の子孫[2]岳鍾琪(岳飛の子孫とされる清の四川提督)の7世の孫)[3]と称される。[4]

事跡[編集]

1901年光緒27年)に日本へ留学し、陸軍士官学校第16期(留学生第3期)を卒業した。その後、長く在日中国公使館附武官を務めている。国民政府では、1933年民国22年)から1936年(民国25年)2月まで外交部察哈爾省特派員の地位にあった(当時の察哈爾省政府主席は宋哲元など)。[2][5][6]

その後、中華民国臨時政府に参加し、1939年(民国28年)1月から行政委員会外務局長をつとめる。1940年(民国29年)3月、臨時政府が汪兆銘政権に合流すると、華北政務委員会実業総署署長(実業総署督弁は王蔭泰)に任ぜられ、[5]華北政務委員会が改組された1943年(民国32年)11月までこの地位にあった。[7]また、1941年(民国30年)8月には、同委員会の華北河渠委員会委員にも任ぜられている。[6]1943年11月以降の岳開先の行方は不詳である。

[編集]

  1. ^ 外務省情報部編(1928)、465頁は「年齢46歳」としている。同書は昭和3年(1928年)現在の年齢(数え年と見られる)を記載しており、これに従い本記事では1883年生まれとする。ただし、東亜問題調査会編(1941)、38頁は、「年はすでに六十を越える」(具体的な生年の明記は無い)と記述している。1883年生まれならば1941年当時で数え年59ということになり、計算が合わない。
  2. ^ a b 外務省情報部編(1928)、465頁。
  3. ^ 東亜問題調査会編(1941)、38頁。当該頁は「勇将岳鍾崎将軍」と誤記している。
  4. ^ ちなみに当時の要人としては、岳維峻も岳飛の子孫とされていた。ただし、岳維峻の出身地は陝西省蒲城県である。
  5. ^ a b 東亜問題調査会編(1941)、38頁。
  6. ^ a b 劉国銘主編(2005)、1584頁。
  7. ^ 劉寿林ほか編(1995)、1058頁。

参考文献[編集]

  • 外務省情報部『現代支那人名鑑 改訂』東亜同文会調査編纂部、1928年。 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1