岡村昭彦
岡村 昭彦(おかむら あきひこ、1929年(昭和4年)1月1日 - 1985年(昭和60年)3月24日)は、日本のジャーナリスト。東京出身。ベトナム戦争を撮影した報道写真で知られる。
目次 |
[編集] 経歴・概要
1929年(昭和4年)1月1日、大日本帝国海軍参謀の岡村於菟彦の長男として生まれる。父方の曾祖父に明治天皇侍従の堤正誼、父方の祖父に大審院判事・弁護士・中央大学学長の岡村輝彦がおり、母方の曾祖父に日本赤十字社創設者で伯爵の佐野常民、母方の祖父に海軍少将で子爵の田村丕顕がいる。伯父に医学者緒方知三郎、弟に、後の俳優岡村春彦がいる。
学習院初等科から学習院中等科に進むが、教練の時に菊の紋章入りの木銃を叩き折って退学となり、東京中学校に転じて卒業。伯父の緒方知三郎が学長を務める東京医学専門学校(現在の東京医科大学)に進む。
敗戦後は父親の公職追放に伴って困窮生活を送り、輪タク屋などの肉体労働を経験。1947年、学費値上げに反対して演説を行い、東京医学専門学校から退学処分を受ける。
修道院の客室係や書店員などを経て三池闘争に参加し、三池の炭鉱労働者街に住み込む中で被差別部落出身の炭鉱労働者や松本治一郎と出会い、部落問題への関心を形成[1]。1959年頃、部落解放同盟に参加しオルグ活動を行う。荒川区や木下川(東京都墨田区東墨田)に住んで皮革工場で働くうちに、上本佐倉(千葉県印旛郡酒々井町)の部落出身労働者と出会い、1960年から上本佐倉で食客として部落民の家を転々と移り住みながら冤罪事件や下水問題などの差別解消に尽力[1]。しかし『週刊実話』に上本佐倉出身の若者の集団による輪姦事件が詳細に報じられた折、同誌への情報提供者とみなされて部落民から吊し上げを受け、1961年に上本佐倉を去る[1]。
その後、総評の週刊誌「新週刊」編集部を経て、1962年(昭和37年)PANA通信社の契約特派員となる。当時、岡村はPANAの東南アジア、韓国などの国々に契約特派員として派遣されていた。ベトナムではベトナム戦争を最前線で取材し、韓国ではミサイル基地で起きた少年殺人事件と李承晩ラインを取材。ベトナム取材の成果は『ライフ』誌上に「醜いベトナム戦争」と題して9ページの写真特集が掲載され、大きな反響を呼ぶ。
翌1965年(昭和40年)、単身、ベトコン(南ベトナム解放戦線)支配区に潜入し取材する。しかし、このことは南ベトナム政府の忌避を買い、5年間の入国禁止処分を受けることとなった(この潜入取材の前後でPANAとの契約を解除しフリーになっているが明確な時期は不明)。ベトナムから追放された岡村は、ドミニカ革命やナイジェリアのビアフラ内戦、ジョン・F・ケネディのルーツであるアイルランドを取材する。
1971年(昭和46年)ラオス侵攻作戦に無断で従軍取材後、再度の入国禁止処分を受ける。
1980年(昭和55年)ごろから生命倫理、精神疾患、ホスピスなどに取材の対象を拡げた他、中国の水利事業に関心を抱き、揚子江(長江)を取材している。
1985年(昭和60年)3月24日敗血症のため死去。56歳。
[編集] エピソード
アイルランドを取材した際には、イギリスの支配下にあったアイルランドに来て、同じように外国の干渉を受けてきたベトナムの民衆の気持ちを理解するようになったと回想している。後に岡村は一家でアイルランドに移住している。