岐北軽便鉄道甲形電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岐北軽便鉄道甲形電車
名鉄モ15形電車
名鉄モ25形電車
甲形4
(モ15形17→モ25形27)
基本情報
製造所 日本車輌製造
主要諸元
軌間 1,067 mm(狭軌
電気方式 直流600 V架空電車線方式
車両定員 46人(座席12人)
車両重量 6.6 t
全長 9,754 mm
全幅 2,134 mm
全高 3,454 mm
車体 木造
台車 ブリル21-E
主電動機 甲形:ゼネラル・エレクトリック GE800
モ15形:デッカー DK-13A
モ25形:東洋電機製造 TDK-580F
主電動機出力 甲形:25 PS
モ15形:30 PS
モ25形:40 PS
搭載数 2基 / 両
歯車比 71:15
制御装置 直接制御 DB1-G
制動装置 手ブレーキ・非常用発電ブレーキ
備考 モ15形は1944年現在[1]
モ25形は1953年現在[2]
テンプレートを表示
起線時代のモ25形28

岐北軽便鉄道甲形電車(ぎほくけいべんてつどうこうがたでんしゃ)は、岐北軽便鉄道(後の揖斐線)が開業時に新製した木造二軸単車である。

本項では同時に新製された乙形(おつがた)についても記述する。

沿革[編集]

1914年(大正3年)に岐北軽便鉄道が忠節 - 北方間を開業した際に導入した、日本車輌製造製の木造オープンデッキ構造二軸単車である[3][4]

車体長が異なる甲形(31ft41in)と乙形(27ft)の2種類が存在し[3]、このうちV 10 V(V:乗降デッキ)という側面窓配置[5]の甲形は軌道単車[注釈 1]としては比較的大型で、名鉄各線の前身会社が保有した軌道単車の中でも最長であった[2]。屋根構造は当初客室部のみダブルルーフ構造となっていたが、甲形のみ1937年(昭和12年)5月(名鉄時代)に運転台まで屋根を延長し、他の市内線単車と外観を統一している[3]。製造当初はゼネラル・エレクトリック (GE) 製の電気機器(25馬力[7])やブリル (J.G.Brill) 社製の台車を装備した[8]

1921年(大正10年)に美濃電気軌道が岐北軽便鉄道を併合すると、翌年には甲形および乙形は美濃電気軌道の付番体系に組み込まれ、G13-17号G19号[注釈 2]に改番する。更に、貨車の連結や建設中の黒野揖斐への延長運転に備えるため、1925年(大正14年)にはモーターを従来のGE製(25馬力)から市内線車両[注釈 3]が装備するイングリッシュ・エレクトリック(デッカー)製のDK-13A(30馬力)に換装し、D13-17号D19号となった[3]。しかし、D13-17, 19号は北方線本揖斐延伸の直前の1928年(昭和3年)4月に鏡島線に転属した。鏡島線運用時代に乗降ステップが新設された[3]

現・名古屋鉄道誕生後の1939年(昭和14年)4月には、元・乙形であるD15、D16号が満州国・新京市電に売却され[3]、残された4両には1941年(昭和16年)の形式称号改訂によりモ15形(15-18)という形式称号および車番が与えられた[5][11]。同時期に戦時輸送強化のため蘇東線(後の起線)への転属が決まった[注釈 4]が、稼働不能のモ16は一旦転属が見送られた。転属に際して特に改造は行われず、蘇東線では使用しない方向幕や中央緩衝連結器といった機器も搭載されたままであった[2]

モ15形(15・17・18)の投入により蘇東線の輸送量は増加したが、戦時輸送の酷使によりモーター故障が頻発するようになり、戦後は予備役となっていた。名鉄は蘇東線改良の一環として、1947年(昭和22年)にモ16含むモ15形全車のモーター換装を実施。竹鼻線で使用されていたデ1形形式図[13])が装備していた東洋電機製造製TDK-580F(40馬力)と交換したことで稼働率が上がり、換装前とは対照的に起線(1948年改称)の主力車両となった[2][注釈 5]

1949年(昭和24年)の番号整理でモ15形(15-18)はモ25形(25-28)に改番した[5][1]。その後、起線車両(モ25形とモ40形)のビューゲル化工事が1951年(昭和26年)に実施され、工事期間中の予備車が必要になったことからモ26が改めて起線に転属した[2]。ビューゲル化工事を前後して車体色やヘッドライトの移動などが行われたが、その内容は各車ごとに異なっており、例えば車体色は上半分クリーム、下半分グリーンのツートンからダークグリーン一色に変更したものの、モ27やモ28は起線廃線前までに元のツートン色に戻っていた[15]

1953年(昭和28年)6月に起線がバス化実験に伴い休止されると、モ25・モ26が一旦新川工場に回送された。モ27・モ28およびモ40形の6両は三条検車区にそのまま保管されたが、すぐにモ25形・モ40形全車両ともトロリーポール化改造を受け、同年8月に開催された岐阜の花火大会輸送のため、岐阜市内線の増発列車に充当された[16]。起線は翌年バス化(廃止)されたため、モ25形はそのまま岐阜市内線に残された[3][注釈 6]1954年(昭和29年)9月には再度ビューゲル化されている[3]

先述のビューゲル化以外にも、岐阜市内線での運用に合わせて続行灯の廃止や尾灯、フェンダーの変更など小規模な改造が施されたが[16]、オープンデッキ構造には手を加えられず、最後まで乗降扉は取り付けられなかった[3]。そのため岐阜市内線では多客時以外にはあまり使用されず、保存が検討されたモ26以外は1959年(昭和34年)5月までに廃車となった[3]

本形式は製造当初のオープンデッキ構造が残っていたことが評価され、博物館明治村で動態保存することが計画されていた。そのためモ26は1963年(昭和38年)8月の廃車後も岐阜工場にしばらく保管されていたが、京都市電狭軌1型(N電)を京都市から授受し、これを動態保存することにしたため、モ26の保存計画は白紙となり、1967年に岐阜工場で解体された[16][3]

改番表[編集]

岐北軽便 美濃電軌 名古屋鉄道
1914年 1922年 1925年 1941年 1949年

1 G15 D15 →(新京市電)
2 G16 D16 →(新京市電)

3 G13 D13
15
モ15
25
モ25
4 G17 D17 モ17 モ27
5 G14 D14 モ16 モ26
6 G19 D19 モ18 モ28

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 岐北軽便鉄道は将来的に美濃電市内線へ直通することを想定しており、そのため導入した単車も路面電車型となった。しかし、長良川河川改修等の理由により、忠節付近における両路線の接続は美濃電合併後も叶わなかったため、北方線(旧・岐北軽便線)はホームを嵩上げして鉄道線として運行されることになる(両線が繋がるのは名鉄発足後)[6]
  2. ^ 美濃電は開業直後にD13-D18号の単車6両を追加増備していたが、D18号以外を後に駿遠電気静岡鉄道静岡清水線の前身)に売却したため、13-17号は欠番になっていた。また、美濃電では当初「末尾9」を忌番として避ける慣習があり、19号は元々空いていた[9]。甲形6号をG19号に改称した頃には9を忌番とする慣習はすでに薄れていたと言われている[10]
  3. ^ 換装対象となったのはD3・D4・D10・D11・D12・D18号[7]
  4. ^ 蘇東線には先行して別の岐阜線車両(DD62・DD63号?[12])を投入していたが、何らかの理由によりモ15形とを交換したとされる[2]
  5. ^ モーター換装後、デ1形はデ1・4号が1948年(昭和23年)2月に野上電気鉄道に譲渡され同社のデハ14・15に、デ2・3号が同年6月に熊本電気鉄道に譲渡され同社のモハ11・12となった[14]
  6. ^ モ40形は那加車庫で一旦休車となった後、岡崎市内線に転属[16]

出典[編集]

参考文献[編集]

書籍

  • 名古屋鉄道『写真が語る名鉄80年』名古屋鉄道、1975年。 
  • 日本路面電車同好会名古屋支部『路面電車と街並み 岐阜・岡崎・豊橋』トンボ出版、1999年。 
  • 清水武『名鉄岐阜線の電車 -美濃電の終焉(上)』ネコ・パブリッシング、2010年5月。ISBN 978-4-7770-5285-1 

雑誌記事

  • 神田功「失われた鉄道・軌道を訪ねて〔26〕名古屋鉄道 起線」『鉄道ピクトリアル1971年1月号』第246巻、電気車研究会、1971年1月、71 - 76頁。 
  • 白井良和「名古屋鉄道の車両前史 現在の名鉄を構成した各社の車両」『1986年12月臨時増刊号』第473巻、電気車研究会、1986年12月、166 - 176頁。 
  • 白土貞夫「竹鼻鉄道「竹鼻駅」駅名異聞」『鉄道ピクトリアル2009年3月臨時増刊号』第816巻、電気車研究会、2009年3月、202 - 207頁。 
  • 加藤久爾夫・渡辺肇「私鉄車両めぐり 名古屋鉄道」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第30号、電気車研究会、2015年1月、122 - 165頁。