山野千枝子

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1953年

山野 千枝子(やまの ちえこ、旧姓:三沢[1]1895年 (明治28年) 3月11日 - 1970年 (昭和45年) 2月11日)は、日本の美容家神奈川県横浜市出身。

各地に美容院を開き、日本にパーマネント(後にコールドパーマ)技術を広めた草分けだった[2]。美容器具の国産化に努め[3]、赤外線による美顔術、脱毛法、美容体操・整体術なども発表した[2]

また、ファッションモデルの前身である「マネキンクラブ」も創設し[2]ファッションショーによって洋装を広めたといわれる[3]

来歴[編集]

一旦事務員に就いた後、神戸高等家政女学院に入学、1913年(大正2年)に卒業[2]。同年、山野末松と結婚し渡米。美術雑貨商などをしながら[3]、ワナメーカー・ビューティースクールで美容技術を取得する[2]

1922年(大正11年)10月、米国より帰国[2]。翌1923年(大正12年)3月、東京駅前にできて間もない丸ノ内ビルヂング4階に、婦女界社主・都河竜の援助により、「丸ノ内美容院」を開店[4][5]。寝ながら洗髪できるシャンプトレーの採用など、アメリカ式を取り入れ、連日新聞報道されて話題となった[5]文金高島田の4倍という高額料金だったが、女優や上流階級の女性客が列をなし、見物客も押し寄せた[5]

1929年(昭和4年)、大日本美容協会を創設。1946年(昭和21年)、全日本美容連盟を創設。1954年(昭和29年)、東京美容国民健康保険組合を創設(理事長に就任)。1950年(昭和25年)からは、東京高等美容学院の院長も務めた。

1970年 (昭和45年) 2月11日、心筋梗塞のため東京都渋谷区の自宅にて死去。74歳[6]。墓所は多磨霊園

賞詞[編集]

著書[編集]

  • 女性美の創造 (1935年、生命の芸術社)
  • 光を求めて―私の美容三十五年史 (1956年、サロン・ド・ボーテ)
  • これだけは身につけよう―美しさをつくる美容手帳 (1960年、集英社)

脚注[編集]

  1. ^ 山野千枝子 とは - コトバンク
  2. ^ a b c d e f 『日本女性人名辞典』(日本図書センター)
  3. ^ a b c ジョジョ企画『女たちの20世紀・100人 ―姉妹たちよ』(集英社、1999年)
  4. ^ 女性誌リンク集 データファイル 大手小町 YOMIURI ONLINE(読売新聞)婦人公論創刊90周年企画愛読者特別号(非売品)2007年2月7日発行「読売新聞」に見る女のクロニクル90年
  5. ^ a b c 『20世紀全記録』講談社、1988, p330
  6. ^ 訃報欄『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月12日夕刊 3版 11面

関連文献[編集]

関連項目[編集]