山田信夫 (脚本家)

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キネマ旬報社『キネマ旬報』第265号(1966)より

山田 信夫(やまだ のぶお、1932年7月11日[1] - 1998年2月2日)は、日本の脚本家

人物[編集]

中国上海出身[1]。父親は電気技師[1]。上海から引き揚げ後は愛知県豊橋市で暮らす[1]。工業高校卒業[1]後、早稲田大学文学部に進学[1]。大学では、やがて訪れるであろうカラー映像時代を見据えて美術を専攻[1]。大学在学中に東宝の脚本研究生となる[1]

1956年に大学卒業後、大学の先輩のつてで作家の佐藤愛子宅に居候[1]。居候生活の傍ら、女子高校の教師に就いた(数日で退職)[1]後、名古屋ミュージックホールで文芸部員を務め[1]、ミュージックホール閉鎖後はタブロイド新聞の記者を務めていた[1]。「生きることに背き続けて来た」自分自身をモデルにそれを3人の登場人物に反映させた自身の作品『陽に背く者』が1958年にシナリオ作家協会コンクールに入選した[1]。同年に日活と契約し、1970年にフリーとなる。1963年に『若もの-努の場合-』(TBS)で初のテレビドラマ脚本、同作で同年、第17回芸術祭奨励賞受賞[2][1]

小さな心象風景を細かく描くのが主な脚本の作風[1]。最初は日本の映画やドラマには馴染めなかったと自ら話しており[1]、日活映画『憎いあンちくしょう』の脚本では封切当時酷評されたことがあったという[1]

プライベートでは、東京で暮らした後、妻の故郷の岡山県へ転居[1]。妻が亡くなった後は高校生時代まで過ごした豊橋市へ転居[1]1987年頃、20歳年下の女性と再婚[1]。息子は映画プロデューサー[1]

主な作品[編集]

ほか

著書[編集]

  • 『雨のアムステルダム』ワールドフォトプレス 1975
  • 『映画子象物語 地上に降りた天使』原作 小原文子小学館 1986
  • 『山田信夫テレビシナリオ傑作選』関西テレビ放送 1991

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 週刊テレビ番組(東京ポスト)1989年2月24日号「脚本家の横顔 山田信夫・その1」60頁、1989年3月10日号「脚本家の横顔 山田信夫・その2」62頁、1989年3月17日号「脚本家の横顔 山田信夫・その3」62頁
  2. ^ ドラマ 詳細データ「若もの-努の場合-」”. テレビドラマデータベース. 2021年9月18日閲覧。