山吹城
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山吹城 (島根県) |
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| 通称 | 要害山城 |
| 城郭構造 | 階郭式山城 |
| 天守構造 | 無し |
| 築城主 | 大内弘家 |
| 築城年 | 延慶年間(1309年以降) |
| 主な改修者 | 大内義隆、尼子晴久、毛利元就 大久保長安 |
| 主な城主 | 刺賀長信、本城常光、 |
| 廃城年 | 慶長6年(1601年)頃 |
| 遺構 | 空堀、土塁、井戸、石垣 城門(移築現存) |
| 指定文化財 | 国の史跡、世界遺産 |
| 位置 | 北緯度分秒 東経度分秒 |
山吹城(やまぶきじょう)は、石見国(現:島根県大田市大森町)にあった山城。石見銀山の防衛用として築城された。
目次 |
[編集] 概要
標高414m、比高200mの要害山上に築かれた山城で、その規模は要害山全体に及ぶ。頂上付近に南北52m東西32mの主郭を配し、19本以上確認できる畝状竪堀群や土塁、空堀、石垣等で防衛線をなしている。
[編集] 沿革
延慶2年(1309年)頃、石見銀山が発見され、その防衛用の城として、周防・長門国の大内氏当主・大内弘家によって築城された伝承がある。正確な築城年代は不明だが、鎌倉時代末期から南北朝時代初期には山吹城の原型となる城郭・砦が存在したと推測される。時代が下り大内義興が当主の頃、博多の商人・神谷寿貞(姓については神屋、名については寿禎・寿亭とも表記される)によって開発され、採掘量が増大した。
享禄3年(1530年)に石見の国人領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を強化して石見銀山防衛の拠点とした。天文6年(1537年)、出雲国の戦国大名尼子経久が石見国に侵攻し、銀山を占領した。天文8年に大内氏が奪還したものの、再びその2年後に尼子氏が石見小笠原氏を利用して銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。
天文20年(1551年)大内義隆が陶隆房(陶晴賢)の謀反で自害すると(大寧寺の変)、厳島の戦い、防長経略の後に大内領を併呑した毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げた。毛利氏が大内領に侵攻している状況の中、弘治2年(1556年)に尼子晴久は石見国へ侵攻、山吹城主刺賀長信を自害させ、石見銀山を所領とした(忍原崩れ)。永禄2年(1559年)に毛利軍が侵攻するも、降露坂の戦いにて撃退する。しかし雲芸和議の結果、永禄3年(1560年)に城主であった本城常光を降伏させ、その2年後、毛利元就は本城常光を暗殺して、石見銀山と山吹城を手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた。
その後、毛利氏の勢力拡大によって、石見国全体は平穏な時期を迎えた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、石見銀山は天領となり、大久保長安が山吹城に入った。山吹城を改修した長安であったが、翌年に大森代官所に拠点を移し、山吹城は実質的に廃城となった。
平成19年(2007年)7月2日、下記の史跡とともに世界遺産として登録された。
- 銀山柵内 (Ginzan Sakunouchi, 1246-001a)
- 代官所跡 (Daikansho Site, 1246-001b)
- 矢滝城跡 (Yataki-jô Site, 1246-001c)
- 矢筈城跡 (Yahazu-jô Site, 1246-001d)
- 石見城跡 (Iwami-jô Site, 1246-001e)
- 大森銀山重要伝統的建造物群保存地区 (Ômori-Ginzan, 1246-001f)
- 宮ノ前地区 (Miyanomae, 1246-001g)
- 重要文化財 熊谷家住宅 (House of the Kumagai Family, 1246-001h)
- 羅漢寺五百羅漢 (Rakan-ji Gohyakurakan, 1246-001i)
- 佐毘売山神社
- 鞆ヶ浦道 (Iwami Ginzan Kaidô Tomogauradô, 1246-002a)
- 温泉津沖泊道 (Iwami Ginzan Kaidô Yunotsu-Okidomaridô, 1246-002b)
- 鞆ヶ浦 (Tomogaura, 1246-003a)
- 沖泊 (Okidomari, 1246-003b)
- 温泉津重要伝統的建造物群保存地区 (Yunotsu, 1246-003c)
[編集] 参考文献
- 「仁摩町誌」
- 「石見銀山-戦国の争乱・鉱山社会・天領」石村禎久著