屠特若尸逐就単于

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屠特若尸逐就単于(ととくじゃくしちくしゅうぜんう、拼音:Tútèruòshīzhújiùchányú, ? - 177年)は、中国後漢時代の南匈奴単于伊陵尸逐就単于の子。屠特若尸逐就単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は不明。

生涯[編集]

熹平元年(172年)、伊陵尸逐就単于が薨去すると、屠特若尸逐就単于として即位した。

熹平6年(177年)、屠特若尸逐就単于は護烏桓校尉夏育破鮮卑中郎将田晏使匈奴中郎将臧旻らとともに雁門塞から長城の外に出ると、三つに分かれて並行して進み、2千余里を突っ切って鮮卑討伐を行った。鮮卑の檀石槐は配下の部族を指揮して、これを迎え撃ち、臧旻らを大敗させた。この遠征で無事に帰還できた兵馬は十分の一にすぎなかった。この年、屠特若尸逐就単于は薨去し、子の呼徴が立った。

参考資料[編集]