尾崎清光

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尾崎 清光(おざき せいこう、1935年 - 1984年1月30日)は日本政治活動家ヤクザ実業家日本同和清光会最高顧問。

目次

[編集] 概要

えせ同和行為の黒幕であり、大物の同和事件屋として名を売った。1982年には日本の黒幕として『週刊大衆』等のゴシップ雑誌で3度取材を受け、政界においては当時最大派閥の長であった田中角栄ですら力添えを乞うた権力者であった。ホテルオークラで誕生パーティを行なった際には、自民党代議士はもとより政財界人等1000人以上が訪れた。そのうち150名までが中央官庁の事務次官長官局長クラスの上級官僚であった。同じ日に当時のヒルトンホテル永田町)で田中角栄のパーティが開催されたが、役人が参加したのは僅かに8人であった。

1984年に入院中の病院で何者かにより殺害される。

[編集] 経歴

高知県高岡郡佐川町被差別部落に生まれる[1]。17歳の時、地元の商業高校に在学中、寸借詐欺で少年院に送られる[2]。少年時代から恐喝や傷害、銃刀法違反、婦女暴行未遂など[2]で17件の前科があったが、それらの事件では実刑を免れていたという[3]。大阪の東組[4]に入り、20代から傷害恐喝の常習犯として知られた。1965年頃、暴力団から足を洗うために左手小指を第二関節から切断[2]大阪市で金融・手形割引や不動産会社を営むうち、1970年ごろ[2]に元法務大臣西郷吉之助参議院議員)の秘書グループに取り入って西郷の私設秘書となり、西郷による5億円近い乱発手形の回収を任されたが、業者への脅迫により、同年ごろ兵庫県警に逮捕された。

この事件を機として故郷の佐川町に帰り、建設会社を設立。高知県内の政財界や行政に食い込んで、農地転用許可や国有地払い下げに暗躍。自らも建築・土木・砂利採取などの事業を営み、公共事業や大手企業の下請けを一手に引き受け、「土佐の黒幕」と呼ばれて恐れられた。自民党員として1972年10月28日の佐川町長選挙では自民党推薦の渡辺勉を応援し、渡辺の当選後は勝共連合を使ってビラ街宣車で反共キャンペーンを張り、部落解放同盟正常化全国連絡会議の支部幹部を威嚇した[4]

1977年2月、高知県民文化ホールの工事を受注した大成建設から3900万円以上を恐喝した事件で逮捕。1982年3月、懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を受ける。

この間、1978年に上京。全日本同和会に所属し、最高顧問の地位にあったが、内紛で脱退後、自ら日本同和清光会を結成(1978年)。同和団体幹部としての地位や政財界へのパイプや暴力団幹部との繋がりを道具に使って行政を恫喝し、市街化調整区域など通常は開発の許可が下りない土地の許可を強引に取得して開発業者に斡旋[5]。地上げの帝王といわれた最上恒産会長の早坂太吉とは兄弟分であり、スポンサーでもあった。億単位の仲介料を荒稼ぎし、暴利をむさぼった。1億2000万円のダイヤモンド入り腕時計や8000万円のブレスレットや最高級のスーツで全身を飾り、3000万円のリムジンを2台乗り回して「歩く三億円」と呼ばれたのはこの時期のことである。競輪、競艇、オートレースといった公営賭博に熱中し、1日に5000万円から1億円を使っていた時期もあるという[6]。また、複数の有名女優を愛人とし、佐渡ヶ嶽部屋のタニマチとして振る舞い、北島三郎のスポンサーとなり、自らも芸能プロダクションを設立し会長を務めた[2]。自民党では、中川一郎武藤嘉文玉置和郎平沼赳夫らに取り入った[2]

尾崎の人となりについて、高知県警本部の部外秘資料には「厚顔にして強引であり、猿知恵が回り、粗暴で偽善的な行動をとる反面単純なところもある。つねに六法全書国会便覧を片手に録音機を利用して会話を収録し、相手のささいな失言を楯に責任を追及するという地癖を有している。又数年前からボディガード兼運転手の秘書を同伴して菊花の紋章入り小旗をなびかせて外車を乗り回わし(原文ママ)、服装、装飾品は舶来の高価なモノを身につけ、いわゆる重役タイプを模倣して政治家、実業家の如く装い、好漢の如く振舞って上級官庁へひんぱんに出入りしていた」と記されている[7]

また、『週刊新潮1980年7月10日号のコラム「CLUB」では「『これぞ銀座のワーストワン』と、銀座の誰もが太鼓判を押す名物男」「五人のホステスを六本木に誘って、5万円のチップをバラまいたのだけど、お目当ての女の子が口説けなかったら、翌日、みんなからチップを回収した」などと書かれ、同誌の記者を自分の事務所に呼びつけたこともある。このとき、週刊新潮は謝罪を拒んだため、尾崎の子分が10人以上で新潮社に乗り込み、大声を上げた[8]

1984年1月30日21時50分頃、糖尿病で入院していた東京女子医科大学附属病院中央棟5階の特別室のベッドで500万円の札束を数えていたところ、見舞い客を装った3人組の侵入を受け、傍らの日本同和清光会副会長ともども壁に向かって立たされた後、サプレッサーつきの短銃で「お命頂戴」の一言と共に至近距離から顔と背中を撃たれた上[2]、背中からナイフ心臓を刺され、同日22時50分頃に出血多量で死亡[9]。当時、クラブ経営に失敗し、暴力団金融への負債を70億円~80億円ほど抱えていたことから、彼の死には暴力団の関与が噂されたが、犯人は逮捕されなかった[10]。尾崎の後ろ盾として住吉連合会最高幹部浜本政吉が存在していたことから、浜本グループと対立する住吉連合会主流派グループの犯行と報じられたこともある[7]。また、尾崎が総理府や建設省や法務省などの官庁から恨みを買っていたため、「暴力団による犯行ではなく、公権力を背後に持つ特殊部隊の犯行」と報じる向きもあった[2]。警視庁は殺人事件担当の捜査一課のみならず暴力団担当の捜査四課や公安まで動員して捜査をおこなったが、容疑者を特定できぬまま1999年1月30日時効を迎え、事件は迷宮入りとなった。この時尾崎清光は糖尿病で余命6ヶ月であった。

尾崎の死後、日本同和清光会は組織分裂を経て新日本同和清光会の名で存続しており、会長は住吉会元組員で尾崎の腹心だった宍戸征男が務めている。

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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  1. ^ 宮崎学『突破者流「殺し」のカルテ―動機と時代背景から読み解く殺人者の心の暗部』p.209(日本文芸社2003年
  2. ^ a b c d e f g h 『噂の眞相』1984年4月号 竹田文昭「プロの殺し屋に射殺された"利権屋同和"尾崎清光の成金人生」
  3. ^ 宮崎学『突破者流「殺し」のカルテ―動機と時代背景から読み解く殺人者の心の暗部』p.202(日本文芸社2003年
  4. ^ a b 『解放の道』1973年12月10日
  5. ^ その手口は、たとえば神奈川県に2万坪の市街化調整区域を発見するとその土地のうち300坪だけを自分の名義にする。そして「ここに人権のためのセミナーハウスをつくるんだ。だからここに家を建てられるようにしろ。やらなければ差別だ!」と役所を恫喝してその土地を市街化区域に変更する。それによってまんまと2万坪の市街化区域を手に入れる、といったものであった(宮崎学『突破者流「殺し」のカルテ―動機と時代背景から読み解く殺人者の心の暗部』p.209、日本文芸社2003年)。
  6. ^ 宮崎学『突破者流「殺し」のカルテ―動機と時代背景から読み解く殺人者の心の暗部』pp.211-212(日本文芸社2003年
  7. ^ a b 「マスコミが報じない尾崎清光射殺事件の真相」(『1984年4月号、p.15)
  8. ^週刊新潮2006年2月23日号、p.181-182。
  9. ^ 暗殺当時、尾崎は東京郊外の大規模な霊園開発事業に介入を図り、そのため大手暴力団関係者や、事件屋としても知られる不動産業者と揉めていたとされる。このころ尾崎は高知県で起きた恐喝事件に関与して有罪判決を受け、執行猶予中だった(宮崎学『突破者流「殺し」のカルテ―動機と時代背景から読み解く殺人者の心の暗部』p.203、日本文芸社2003年)。
  10. ^ 宮崎学は『突破者流「殺し」のカルテ―動機と時代背景から読み解く殺人者の心の暗部』p.214(日本文芸社2003年)にて、「犯人は何者かに雇われた外国人だという、ある筋からのウラ情報がある」「実は尾崎が殺される前日の1月29日、ある弁護士が尾崎に呼ばれて、民事の裁判を頼まれている。その弁護士が受けた相談というのは、尾崎が請け負った神奈川県相模原市周辺の土地取引に関するものだった。成功報酬の額を法的につり上げようとして、尾崎は弁護士に相談をしていたのである。そして尾崎は次の日に殺されている。弁護士によれば、ヒットマンを雇った黒幕は、そのトラブルの相手方だろうということだ。当然そいつの名前はここではいえない。なぜならそいつはまだ生きているからだ」と述べている。

[編集] 外部リンク

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