小田急2400形電車

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小田急電鉄2400形電車
2400形(1987年)
2400形(1987年)
起動加速度 3.0km/h/s
営業最高速度 100km/h
設計最高速度 110km/h
編成定員 544 (200) 人
全長 69,900(編成全体)mm
全幅 2,775mm
全高 4,150mm
編成質量 109.11t
軌間 1,067mm
電気方式 直流1,500V
架空電車線方式
主電動機 MB-3039-A
編成出力 960kW (2M2T)
定格出力 120kW
歯車比 92:15 (6.13)
制御装置 応荷重超多段自動制御方式、指令装置付
(ABFM-168-15MDH)
駆動装置 WN形平行軸歯形継手駆動
ブレーキ方式 電空併用HSC-D形 応荷重機構付
保安装置 OM-ATS
製造メーカー 日本車輌製造川崎車輛

2400形電車(2400がたでんしゃ)は、小田急電鉄1959年から製造した通勤形電車である。

1950年代後半、日本の大手私鉄で試行錯誤されていた高性能な新型電車は全電動車方式が前提となっており、複雑かつ高コストで大量増備に適さないという課題を抱えていた。2400形はこれを克服するため、製造・保守コストの抑制を考慮して開発され、経済性重視の設計から、"High economy car"を略した「HE車」とも呼ばれた。

加速力確保のため、大出力モーターバーニヤ制御器(超多段制御装置)などの新技術を使用し、私鉄業界における先進的な経済形通勤電車となった。電動車の駆動力を確保するため、編成内各車両の長さを不均一にして重量を配分するという珍しい工夫が行われていることでも有名である。

目次

[編集] 開発の経緯

小田急電鉄小田原線の沿線では、1950年代の経済成長に伴い郊外居住者が増加する一方、教育機関等の郊外移転も進行した。その結果混雑は慢性化し、小田急は対応に追われることになった。

[編集] 高性能通勤電車

当初小田急では、高加減速性能を備える全電動車方式の2200形電車(通称ABFM車)を開発し、1954年から投入した。

これは18m級車体の3扉車で、出力75kWのモーターによる全軸駆動方式であり、高加速・高速運転に適した「カルダン駆動方式」、電磁制御で反応が速く、発電ブレーキを併用して高速域から強力な制動力を得られる「電空併用電磁直通ブレーキ」(HSC-Dブレーキ)、2両分8個のモーターを制御器1台で制御する経済的な「1C8M制御方式(MM'ユニット制御方式)」等を採用、当時の日本において最先端を行く高性能電車であった[1]

このような高加速車を投入し、ダイヤの密度を高めることは輸送改善に役立った。複々線化や待避線の建設など大がかりな地上設備の改善を図るよりは、安上がりな輸送改善策でもあった。

[編集] 全電動車式高性能車の問題

2200形の導入が進められていた1950年代後半の小田急には、まだ吊り掛け駆動方式の旧型電車も多く在籍していた。「HB車」と呼ばれる戦前製の手動加速制御車、そして1940年代から1950年代前半に製造された「ABF車」と呼ばれる自動加速制御車である。

これらはいずれも吊り掛け駆動方式自動空気ブレーキ車(一部は電磁弁付加)であり、加速・減速能力は、2200形等のカルダン駆動車より低かったため、同じ線路上に混在させると全体の足並みが揃わず、旧型車がダイヤ組成上の足かせとなっていた。また旧型車は車体も内張りが木製の「半鋼製車体」で、接客設備の陳腐化は否めなかった。

しかし旧型車を新車に置き換えるにも、全電動車方式の高加減速車は機器類を多数搭載するため、製造・保守のコストが高く、大量増備には向かないという欠点があった。もはや高加減速車を限定量投入するのではなく、限られたコストの枠内において、保有車の性能レベルを全体的に高めていく工夫が求められるようになっていたのである[2]

[編集] MT比1:1

電車の電動車(モーター付き車両=M車)と付随車(モーターなし車両、トレーラー=T車)の比率を「MT比」と呼ぶ。

全電動車の場合は「オールM」と表現され、高加速性能が得られるが高コストとなる。2200形はこれにあたる。

一方、一般的な電車では、MT比は2:1から1:1程度とされることが多い。こちらはコストは過大とならずに済むが、加速性能には制約を伴う。MT比1:1編成の場合、発進・低速時から大出力を出せば駆動輪は空転しかねず、加速力を高く取れない。

高度な電子制御以前の時代、乗客を満載した状態のMT比1:1の通勤電車を、空転させずに高加速度で発進させるのは、技術的難題であった。

小田急は前項のような実情から、MT比1:1でなおかつ高い加速性能を持つ経済形高性能車を模索するに至ったが、1950年代後半当時、経済形高性能車の開発に必要となる大出力カルダン方式のモーターは実用化が遅れていた。小田急電鉄線は1067mmの狭軌路線であるが、狭軌用カルダンモーターはスペースの制約が厳しいことから大出力化が困難で、1958年時点での最大出力は110kW級に留まっていたのである。

[編集] 2400形電車

【編成図】

小田原(4両編成)新宿
形式 クハ2450 デハ2400 デハ2400 クハ2450
区分 偶数(Tc2) 偶数(M2) 奇数(M1) 奇数(Tc1)
搭載機器 [3] CONT・PT MG・CP・PT
全長 15,970mm 19,300mm 19,300mm 15,970mm
自重 20.22t 35.30t 33.37t 20.22t

《凡例》
Tc…制御車 M…電動車 CONT…制御装置
MG…電動発電機 CP…電動空気圧縮機 PT…集電装置

小田急電鉄は、1959年に上記の課題を解決した2400形を開発、1960年1月20日から通勤輸送に投入した。

4両固定編成で、1963年までに29編成116両が製造された。

29編成落成したので、クハ2450形の車両番号は2451から2499となった後、一度2450に戻ってその次は2551以降という付番を行っている。

[編集] 車体

クハ2450形(クハ2556)(1988年5月、栢山駅
デハ2400形(デハ2506)(1988年5月、栢山駅

[編集] スタイル

片側3ドアで2段窓を並べた車体デザインそのものは機能優先で平凡である。

2200形同様、裾絞りがない軽量車体で正面貫通式、尾灯を窓上に上げたスタイルは小田急の伝統的なものである。ただし、客扱い迅速化のために小田急通勤電車初の両開き扉を採用した[4]

正面の種別表示器は登場時は装備されておらず、種別板を使用していた(のち改造装備)。製造時から前照灯が2灯化されたが、以後2200形など既存形式も同様の改造を施され、小田急の標準的なスタイルとなった。

当時、小田急の近郊区間において、各駅停車のみが停車する有効長は70m(17.5m車4両分)であった。

すでに小田急では1800形などの20m車も運用されており、2400形導入に際して20m車を標準に切りかえる案もあった。しかし、有効長70mでは20m車では3両編成が限界で、ホーム延伸についても時間をかけて慎重に検討すべき課題であるとされ、20m車切り替え案はこの時点では見送られている[5]。このため、編成長は70m以内に抑えることが大前提となっていた。

[編集] 不等長車体

2400形電車の側面図

2400形の最大の特徴は、デハ(電動車)は19.3m、クハ(制御車)は15.97mと、電動車と制御車(付随車)で3m以上も車体長を違えた変則的な構成である。

これは全車電動車の2200形に近い加速性能を得るため、駆動軸の粘着性を高める目的で重量稼ぎに電動車の車体を長くし、相対的に制御車を短くすることで、17m級の4両編成と編成長や編成重量を揃えて70mホーム制限に対処したものである[6]

また、当時の小田急電車標準の全長17570mm[7]の在来車とホームでのドア位置を合わせるため、クハの連結面側車端にドアを設置し、乗降時・ラッシュ時の乗客流動に問題がないようにしていた[8]

[編集] 設備

2400形車内(1988年5月)
クハ2450形乗務員室仕切(1988年5月)
クハ2450形通風グリル(外側)
クハ2450形通風グリル(内側)

当時の新型通勤電車に共通する全金属製軽量車体、通勤仕様のロングシート構造で、内装自体に特異な特徴は薄い。座席は本形式までは居住性に配慮し、ある程度の奥行き(座面450mm、背摺150mm)を備えて乗り心地をよくしていた[9]ほか、混雑緩和のため、運転室の車掌台側2/3は仕切りを折りたたんで客室スペースとすることができた。

制御車の乗務員扉次位の戸袋は、当初夏期には換気のため、窓ガラスの代わりに通風グリルとしていたが、のちグリルは通年装備となり、逆に冬期は冷気侵入防止用の板を戸袋内側に取付ける方法に変更している。以後小田急の非冷房車は登場時からグリルとしている。なお、冷房改造されたクハ2478号車のみは通年ガラス窓であった。

[編集] 走行機器

小田急は戦前から三菱電機製の電装部品を多く使用してきた歴史があり、2400形の開発にも三菱の技術が相当に寄与している。

[編集] モーター

三菱電機製のWN平行カルダン駆動方式のモーター、MB-3039-A型[10]を搭載する。

WN駆動方式は、アメリカウェスティングハウス・エレクトリック社が開発したシステムで、「WN継手」と呼ばれるジョイントを介してモーターの駆動力を車軸に伝達する。

WN駆動は、日本にはウェスティングハウスのライセンシーである三菱電機が移入し、標準軌私鉄には早期に導入が始まっていたが、継手の横幅が広いためスペースに制約のある狭軌鉄道には普及できず、1955年時点では、スペース面での制約が少ない直角カルダン中空軸平行カルダンが日本の狭軌路線用として先行していた。

このため三菱電機は、狭軌用WN駆動システムの実用化に取り組んだ。WN継手を小型化し、まず比較的低出力の55kW級モーターを、1956年に製造された富士山麓電気鉄道(現・富士急行)3100形電車に搭載、狭軌仕様WNカルダンを初めて実用化した。続いて競合他社並みの狭軌75kW級WNを、1957年開発の長野電鉄2000系電車で実現した。これらはWN継手の搭載スペース確保のため、モーター軸の出力側端部から冷却ファン部をWN継手を避けるように張り出して配置している。

そして小田急向けMB-3039-A型では、モーター本体、WN継手、駆動ギアのコンパクト化を図りつつ、さらに車輪径を大径の910mmとすることでモーター大径化の余裕を得た。その結果、当時の狭軌用カルダンモーターとしては日本最強出力の120kW級が実現された[11][12]

[編集] 制御装置

2200形同様の1C8M方式(1基の制御装置で2両分8個の主電動機を制御する)で、制御装置は偶数電動車に搭載している(奇数電動車にはコンプレッサー電動発電機を搭載)。

外観上は車体長の変則性が目立つ2400形であるが、機能的には、当時の電車用としては最も進んだもののひとつである、力行応荷重および発電制動付バーニヤ制御器を採用したことが重要な特徴である。プログラム・コントロールの採用、制御回路の無接点化、バーニヤスイッチによる超多段制御、戻しステップ併用、その他新機構の採用の5点を特徴としていた。

制御装置には、空転をモーター間の電圧の差としてブリッジ回路で早期検知して即座に再粘着させる(再粘着装置)が開発・装備[13]されている。2400形ではこれらの空転検知回路によって、空転・滑走時にはノッチ戻しをするようになっている。

2200形では定員乗車時の起動加速度を3.0km/h/sと設定していたが、2400形は同等の起動加速度3.0km/h/sを確保しただけでなく、応荷重機構が付加されたことで、空車から満車(250%)まで一定の3.0km/h/sに制御されるようになった。低荷重時・高荷重時を問わない粘着性能の向上が、MT比1:1化のための大きな要素となったのである。

[編集] 超多段制御器

電車の制御装置は、既に日本でも古く大正時代から自動加速方式が導入されていたものの、その段数は10段前後にとどまり、加速時のショックは大きく、高い加速力も得にくかった。

加速対策として有効なのは、制御器そのものの多段化である。1950年代まで欧米に比べて遅れていた日本の電車技術であったが、それでも制御器の高性能化はかなり早い時期から取り組みが行われており、太平洋戦争直前より、日立製作所のMMC制御器(1939年)等を嚆矢として、20段以上程度の多段制御器が出現している。

だが本格的発展は戦後の外来技術移入からとなった。1950年代に入ると、第二次世界大戦前後にアメリカで開発された電車用の新しい制御装置が続々と日本に移入され、日本の大手重電メーカーはそのライセンス生産や改良に取り組んだ。その結果、1954年以降は30段以上の多段制御が可能となり、日本の電車の加速は従来よりスムーズになった。

この種の機械的な制御装置の最終進化形が、通常の制御器に、制御を細分化する回路を加えて超多段化したバーニヤ制御器で、1950年代後半に出現した。電動カム軸や電磁作動スイッチなど従来からの機械的な制御に、当時出始めたプログラムコントロールなどを組み合わせた方式である。

2400形のバーニヤ制御器は、力行(加速)81段(直列33段、並列41段、弱め界磁7段)、制動(発電ブレーキ)73段という、実用上は無段階に近い内容で、これ以上は段数を増やす必要性の薄いほどのハイスペックである。

制御段数が多ければ、ピーク電流を抑えることができるため、カム進段時のトルク変動が小さく、粘着限界一杯まで高引張力を保ちながらスムーズな加速が実現でき、結果として加速力が向上する[14]

しかし、発電制動付のバーニヤ制御器は高性能だが複雑で、価格、メンテナンスとも高コストである。そこで、在来のMT比1:1な旧型車や、オールM高性能車では、制御器が2両に1個必要だったところを、2400形では4両に1個で済む構成としたことで、コスト抑制問題を解決した[15]

このほか制御系統の特徴としては、主に以下のような点が挙げられる。

  • 主抵抗器が電動車2両および制御車2/3両分の制動力を負担するため、大きな発熱量に対応した大型のものとなり(偶数電動車の海側の床下台車間をほぼ埋めるサイズとなった)、なおかつ送風機を4台備えた半強制通風式とされた。
  • カム軸制御の無接点化が進められ、調整などのメンテナンスを簡略化した。
  • 発電ブレーキに他励回路を設け、確実にブレーキが立ち上がるようにしている。

[編集] その他

ブレーキは「HSC-D形」電空併用電磁直通ブレーキ、台車住友金属製のアルストムリンク式台車で、いずれも2200形で採用されて実績のある方式である。

ブレーキには応荷重機構が付いたこと、電制時には制御車の制動力の1/3を電動車が負担する制御をすること、低速になったときに鋳鉄制輪子の制御車と電制の電動車の制動力のバランスをとるために制御車のブレーキ力を減じる制御(B-55装置)をするなどいくつかの新機軸が採用されている。なお、電動車については営業運転終了時まで鋳鉄制輪子を使用していた。

台車は開業以来2200形までの伝統であった一体鋳鋼製台車から鋼板組み立て式に変更となり、軽量化を図ったものとなっているが、軸箱支持は2200形と同じアルストムリンク式台車である。電動車と制御車では寸法が全く異なり、電動車には車輪径910mm・軸距2200mmのFS-330、制御車には車輪径762mm・軸距2000mmで中空軸使用[16]のFS-30が採用され、重量も電動車が5150kg、制御車が3890kgと大きく異なっていた。電動車と付随車での車輪径を変える手法は、その後20mの2600形5000形、さらには特急車の3100形NSE車にも引き継がれている[17]

[編集] その後の推移

辻堂海浜公園内の交通展示館の展示物となったFS30型台車

本形式は増加する通勤輸送需要に時宜を得て投入され、所期の成功を収めたが、その後も小田急線の輸送量は増加し続けて慢性的飽和状態となり、1964年の2600形以降の増備車は全車が大型の20m車体を標準とするに至った。

  • 1961年、クハ2474に3000形SE車で採用されたKD17形台車を転用し、走行試験が行われた。
  • 1961年1月17日和泉多摩川 - 登戸間の踏切で、新宿発向ヶ丘遊園行きの下り各駅停車で走行中の2460Fが警報無視で進入したダンプカーと衝突し先頭のクハ2460は多摩川橋梁から転落して横転、2両目のデハ2410は宙吊りとなった。これら2両は当時の日本車輌製造蕨工場にて復旧された。多摩川橋梁上に残った2両は救援に駆けつけたキハ5000形によって引き上げられた。
  • 1968年にクハ2478のみ試験的に冷房装置が搭載され(CU-12分散式冷房装置5台)、小田急の通勤電車としては初の冷房車となる。1971年までの冷房試験結果を基に5000形量産冷房車が登場した。他の2400形は最後まで非冷房であった。
  • 1972年、2551Fクハ2551に排障器(スカート)が試験的に取付けられた。後に中型車は不採用となり、1977年に撤去された。
  • 2400形は箱根登山鉄道直通の急行に長らく充当されたが、これは当時の箱根登山線には2600形以降の20m級大型車が規格制約で入線できなかったためである。しかし、1982年7月に箱根登山線の規格改良で大型車乗り入れが可能となると、2400形は小田原線の区間運用や多摩線運用などに転用された。
  • 2200形ABFM車廃車が進むと、ABFM車6両編成の運用に、2400形+ABFM車2両という編成が出現した。特に小田原方が2400形の編成は、色は違うが往年の急行を彷彿とさせるものであった。なお、試作冷房車のクハ2478が含まれた編成もこの運用に入ったことがあり、小田原方に連結されていた。
  • 1983年8000形が登場し、ABFM車の置き換えが終わると、今度は2400形の廃車が始まる。変則な車体長や、電動車が全て中間車で短編成を組めないなど使い勝手が悪かったことから中小私鉄等への譲渡は生じず、1989年3月までに全車廃車となった。最後まで残ったのは2484Fであった。
  • 搭載されていた120kWモーターのみ、当時吊り掛け駆動車だった4000形のカルダン駆動化改造に流用された。
  • 一部のFS-30台車は三岐鉄道に譲渡されたが、2008年時点では使用されていない。
  • 1987年12月に小田急百貨店新宿店で開催された「小田急開業60周年記念大鉄道展」で、クハ2452の前頭部が展示された。

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[編集] 脚注

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  1. ^ このタイプは以後派生形も含めて1958年まで増備されている。
  2. ^ これは小田急に限らず、一旦は全電動車方式の高性能通勤電車を開発した大手私鉄各社が、後から直面した共通の課題であった。
  3. ^ クハ2478のみ冷房用電源の確保のためにMG(電動発電機)を搭載していた。自重も24.47tとなっている。
  4. ^ 小田急の両開き扉車は正確には2320形が最初で、通勤用にも使用されていたが、登場時の用途は準特急形であった。
  5. ^ その後の輸送量の推移を見れば結果的には疑問が残る点でもある。
  6. ^ 客室部分の定員を各車で合わせるために、1m前後の不等長で設計された電車の例は多いが、電動車と制御車で意図的に車体長を大幅不等長にする手法は、西日本鉄道300形電車1次車(1939年)など限られた先例があるのみで、編成で使用することを意図しない地方私鉄を除けばあまり例がない。
  7. ^ 例外は20m車の1800形であった。
  8. ^ その後の小田急では輸送量増加によって車両大型化の要求が強まり、モーター出力の向上などもあって、通勤車は20m車体を標準とすることになった。このため通勤電車の変則車体長は2400形1系列のみに終わっている。
  9. ^ しかしその後はラッシュ激化とのバランスから、次いで1964年に登場した2600形では床面積確保を優先して座席の奥行きを削っている
  10. ^ 直流直巻補極付半密閉自己通風式 端子電圧340V、75%界磁での定格出力120kW 392A 1600rpm 最高許容回転数4500rpm 最弱め界磁率35%
  11. ^ 1959年時点では、競合する直角式や中空軸式の狭軌用モーターは最大110kW、標準軌用カルダンでも三菱の125kW級WNが最大級であった。
  12. ^ 1950年代のカルダンモーター出力向上は、機械的なスペース効率の追求に終始した傾向があった。その後1960年代に入ってからカルダンモーターの出力は飛躍的に向上し、標準軌のWNでは新幹線近畿日本鉄道の180kW級、狭軌のWNや中空軸式で150kW級も出現したが、これは継手の小形化と許容変位角の増大による電動機の大形化、8角形枠や遠心力に対する構造の強化やベアリングの改良などの構造面での進化、冷却効率の向上と絶縁技術の向上など、総合的な技術改良によって負荷余裕のある大出力モーターを作れるようになったためである。2400形のモーターも後年の絶縁更新によって5000形と同じ135kWとなっている。
  13. ^ 小田急電鉄発行の2400形パンフレットの2ページに空転再粘着機構の概要が、17ページの主回路図に空転検知用のブリッジ回路が掲載されている。また、表紙は主制御器の無接点制御装置をデザイン化したもので、その中に空転検知回路も掲載されている。
  14. ^ ただし、雨天時などでは微少の空転でもカムが進段してしまうため、直流電動機の特性に依る空転の抑制が効かず、大空転が頻発し、それに伴う過電流故障も多くなる傾向もある。2400形での空転検知回路もこれらの問題への対処であった。
  15. ^ この後もバーニヤ制御器は、一部の大手私鉄や帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)で1960年代に使用されたが、1970年代以降は半導体技術利用の次世代制御器であるチョッパ制御器に主流の地位を譲った
  16. ^ 後に中実軸に変更された。
  17. ^ なお、最新の50000形VSE車でも、展望室の低床化に対応するために採用している。

[編集] 関連項目