小山田有重
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| 小山田有重 | |
|---|---|
| 時代 | 平安時代末期 |
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 不詳 |
| 別名 | 小山田別当 |
| 墓所 | 東京都町田市下小山田町 大泉寺 |
| 氏族 | 秩父氏、小山田氏 |
| 父母 | 父:秩父重弘 |
| 兄弟 | 畠山重能、有重、女子(千葉常胤室) |
| 子 | 稲毛重成、榛谷重朝、重朝(元久2年没) |
小山田 有重(おやまだ ありしげ)は、平安時代末期の武蔵国の豪族。秩父氏の一族で、秩父重弘の子。武蔵国多摩郡から都筑郡にまたがる小山田保、また小山田荘を支配して小山田を称し、小山田氏の祖となる。
[編集] 生涯
治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵では、兄重能と共に大番役として在京しており、平家の忠実な家人として各地で戦った。有重の属する秩父氏は同年10月に頼朝に帰伏している。
『吾妻鏡』(文治元年7月7日条)によると、一族が源氏方に付いた事から平家の棟梁平宗盛に拘束されたが、平家の家人平貞能のとりなしによって宇都宮朝綱と重能、有重は東国へ帰国したという。『平家物語』では一門都落ちの際に平知盛が、『源平盛衰記』では宗盛が重能・有重兄弟を諭して帰郷させたとしている。
元暦元年(1184年)6月16日の頼朝による一条忠頼謀殺の際、御所に呼び出された忠頼の討手として献盃する役だった工藤祐経が動揺して顔色を変えた様子を見て、有重が座を立ち「このような席での御酌は年寄りの役割であろう」と言って祐経の持っていた酌を取った。子の重成、重朝も盃と肴を手にして忠頼の前に進み、有重は息子たちに「給仕の際の故実では、指貫は上括とするものだ」と訓戒を述べ、重成らが盃を置いて括を結んで忠頼の気を逸らせた所を、天野遠景が忠頼を斬った。
これ以降の史料による有重の記録はなく、息子達への世代交代が行われたと見られる。
東京都町田市下小山田町にある大泉寺は有重の館跡と伝えられ、境内に供養塔がある。