小原古邨

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小原 古邨(おはら こそん、明治10年(1877年2月9日-昭和20年(1945年))は、明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師版画家

来歴[編集]

本名は小原又雄。石川県金沢市に生まれた。古邨、祥邨、豊邨と号した。祖父は木版画摺師をしていた。明治23年(1890年)代の頃、東京へ出て、花鳥画を得意にしていた鈴木華邨に師事して日本画を習得、アーネスト・フェノロサの指導のもと、まず「古邨」と称して肉筆画の花鳥画を描き、共進会に出品もしている。明治32年(1899年)から日本絵画協会主催の展覧会、共進会展に上村松園小林古径竹内栖鳳などと並んで作品を出品し、第7回共進会展で「寒月」が三等褒状を、第9回共進会展で「花鳥獣(四種)」が2等褒状を、第10回共進会展で「からすうり」が2等褒状を、第11回共進会展では「嵐」が2等褒状を、第12回共進会展では「花鳥百種」が2等褒状を得るといったように輝かしい活躍をした。そのようななか、順調に日本画家としての道を歩み始めた古邨に転機が訪れる。当時、東京帝国大学東京美術学校の教授をしており、東京帝室博物館の顧問でもあったフェノロサに勧められて、主としてヨーロッパ向けの輸出用の色摺り木版画の下絵を描き始め、明治38年(1905年)から版元の松木平吉(大黒屋)と協力して「古邨」の号で木版画による花鳥画を発表した。なお、松木平吉のほか、秋山滑稽堂、西宮与作からも花鳥画を版行している。大正元年(1912年)に「祥邨」と改号してから昭和元年(1926年)までの間は肉筆画を描いていたといわれるが、「古邨」と款した大正から昭和初期の新版画作品「蓮」(松木平吉版)、「狐」(渡辺版)があり、大黒屋との関係が明治期のみであったのか、あるいは大正以降も「古邨」の号を併用、大正期に肉筆画のみでなく版下絵も描いたのかは検討を要す。その後、版元の渡辺版画店においても花鳥版画を制作し、古邨と彫師、摺師の卓越した職人技が生み出した見事な木版画は、優れた美術作品として評価され、『TIMES』誌に作品が掲載されるなど、その作品は欧米で人気を集めている。

明治期には「古邨」の号を使用していたが、昭和元年からは渡辺版画店から「祥邨」の号を使用して、以降は版元の川口から「豊邨」と号して花鳥画及び動物画の木版下絵を発表し続けた。また、古邨も東京美術学校の教授、東京帝室博物館の顧問を務めている。昭和7年(1932年)4月、渡辺版画店主催で開催された「第三回現代創作木版画展覧会」に「金魚」、「波に千鳥」など多くの作品を出品している。この展覧会にはほかに、伊東深水川瀬巴水高橋松亭伊藤孝之上原古年織田一磨名取春仙エリザベス・キースら多くの新版画の作家による木版画が展示された。昭和8年(1933年)にはワルシャワ国際版画展覧会には長谷川清、深水、巴水らの版画とともに、木版画「柘榴におうむ」を出品している。昭和20年(1945年)に東京の自宅で死去した。祥邨としての作品には後摺のものもある。

古邨による版画は写生に基づいた写実的な作品で、海外において特に高い評価を得ており、平成13年(2001年)にはアムステルダム国立美術館において、日本人作家として初めてとなる大規模な回顧展(パート1、2001年3月31日~5月13日、パート2、5月16日~7月1日)が開催され、同館所蔵の小原古邨による日本画及び木版画180点が展覧された。古邨の作品は欧米の美術館コレクターによって多数、所蔵されている。

作品[編集]

  • 「雁」 滑稽堂 明治後期 古邨 アーサー・M・サックラー・ギャラリー所蔵
  • 「樹上の鷺」 滑稽堂 明治後期 古邨 アーサー・M・・サックラー・ギャラリー所蔵
  • 「雛鳥」 松木平吉 明治後期 古邨 アーサー・M・サックラー・ギャラリー所蔵
  • 「蓮」 松木平吉 大正から昭和初期 古邨 アーサー・M・サックラー・ギャラリー所蔵
  • 「狐」 渡辺版画店 大正から昭和初期 古邨 アーサー・M・サックラー・ギャラリー所蔵
  • 「雁」 渡辺版画店 昭和元年(1926年) 古邨
  • 「鴨九羽」 渡辺版画店 祥邨 昭和6年(1931年) 東京国立近代美術館所蔵
  • 「波に千鳥」 渡辺版画店 祥邨
  • 「鯉」 渡辺版画店 祥邨
  • 「芦に鷺」 渡辺版画店 祥邨
  • 「オカメインコ」 川口版 豊邨 昭和初期

関連項目[編集]

参考図書[編集]