寿都鉄道

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寿都鉄道
路線総延長 16.5 km
軌間 1067 mm
最大勾配 20 パーミル
最小半径 201 m
leer
国鉄函館本線
STR BHF
0.0 黒松内駅
STRlf xABZrf
exBHF
3.9 中の川駅
exBHF
9.9 湯別駅
exBHF
13.3 樽岸駅
exKBHFe
16.5 寿都駅

寿都鉄道(すっつてつどう)は、北海道寿都郡黒松内町黒松内駅から同郡寿都町の寿都駅を結んでいた鉄道路線、およびそれを運営していた鉄道会社

目次

[編集] 歴史

[編集] 設立の経緯

寿都町は、ニシン漁のおかげで明治の頃からにぎわった町であった。そのため、町に函館 - 小樽間鉄道(函館本線)に連絡する支線を敷設して欲しいという要望があり、ことあるごとに関係機関に要請が行われていた。しかし、鉄道敷設に必要な国会の議決が早急には得られなかったため、民間で設立した後に政府に買い上げてもらうこととした。1918年8月20日に、寿都で獲れるニシンや鉱産物の輸送等を目的として壽都鐡道株式會社が設立された。資本金は50万円であった。また、このとき設立にあたったのは畑金吉、他に重役として函館・小樽の実業家が名を連ねていた。1919年7月に起工されたが、第一次世界大戦の影響で鉄が値上がりし、建設費は90万円近くになってしまった。

[編集] 開通から休止まで

1920年10月24日に路線が開通した。開通式では、国有鉄道から払下げを受けた7170形機関車が走った。旅客と貨物輸送を行い、利用客は年間10 - 13万人前後、1946年のピーク時には31万人を運んだ。また、ニシン輸送の際には、魚油で列車がスリップしたというエピソードもあったらしい。畑金吉は、政府に買い上げてもらうために、国会がある度に議員全員に陳情を行ったが、それが実現されることはなかった。一方、事業資金債務は13年で償還し終え、順調な経営を進めていた。しかし、第二次世界大戦後、物価・人件費は高騰するのに対して、運賃は物価庁からの許可が得られず数年間据え置かれたままであったことから、経営が次第に悪化し始めた。1952年には経費削減の一環として、燃費のいいディーゼル機関車が導入されたりした(営業用としては北海道初)。しかし、鉱山の閉山、ニシン漁の衰退、道路整備によるトラック輸送の増加、バス運行による鉄道利用客の減少により経営は悪化する一方で、末期には日に下りのみ1便の運行という有様だった。それでも岩内線と連絡して函館本線の勾配緩和別線にする計画[1]が存在していて、国鉄による買収を期待しながらバスタクシー砕石など経営の多角化を図った。だが、1968年に豪雨による河川増水で路盤が流出し運行休止に追い込まれた。

[編集] 会社清算

1972年5月に正式に廃止となり会社も清算した。バス事業は北海道中央バスに移管された(その後、1978年ニセコバスへ路線譲渡)。なお、1985年6月6日のNHKニュースでの特集「まぼろしの西海岸鉄道」では、寿都鉄道社長が「岩内線延長による用地買収を期待して会社組織を残してきたが、同月30日をもって岩内線が廃止されることから会社をこれ以上存続させる意味がなくなった」と述べていた。

壽都鐡道株式會社の商業閉鎖登記簿謄本を見てみると、正式の会社解散決議は、1987年7月20日の株主総会によってなされている。当時の商法によれば、株式会社は株主総会で会社の解散決議をした後、清算手続に入り、その手続の終了後、清算結了の登記をし、管轄裁判所にその清算結了による商業閉鎖登記簿謄本等を提出して、正式に会社の法人格は消滅する。

しかし、壽都鐡道株式會社はこの清算結了の登記がなされておらず、2004年3月8日、商業登記規則第81条第1項第1号の規定(解散の登記をした後10年を経過したとき)により登記官の職権で閉鎖されている。これは同社が実体的会社組織として存在していないことはほぼ確実に予測されるが、法人格的には消滅しておらず「存続」しており、現状においても会社継続の可能性がありえるということである。

寺田 (1999) は山鹿温泉鉄道北丹鉄道野上電気鉄道とともに「悲惨な末路を迎えた鉄道」としている。この4社はすべて外的要因により路線が廃止になり、会社解散に追い込まれている。

[編集] 路線

[編集] 路線データ

  • 路線距離(営業キロ):黒松内 - 寿都 16.5km
  • 軌間:1067mm
  • 駅数:5駅(起終点駅含む)
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:なし(全線非電化
  • 閉塞方式:票券閉塞式

[編集] 駅一覧

事業者名・駅の所在地は廃止時点のもの。

駅名 営業キロ 接続路線 所在地
黒松内駅 0.0 日本国有鉄道:函館本線 北海道 寿都郡黒松内町
中の川駅 3.9  
湯別駅 9.9   寿都郡寿都町
樽岸駅 13.3  
寿都駅 16.5  

[編集] 車両

[編集] 蒸気機関車

1
鉄道院7170形7170。1920年開業時に入線。1950年の旧鉄道院7170形7171の2(後述)との正面衝突により翌1951年事故廃車
2
旧鉄道院7170形7171。1920年開業時に入線。1950年の1との正面衝突により翌1951年事故廃車
5552
鉄道省5500形。1938年12月入線。1951年廃車
9046(初代)
国鉄9040形。1950年4月2日竣功。1953年10月、2代目9046(旧9045)と振替[2]
7223
定山渓鉄道7223(←鉄道院)。1951年入線。1953年廃車
7224
旧定山渓鉄道7224(←鉄道院)。1951年入線。1952年廃車
7205
国鉄7200形。1952年入線。1958年廃車
9046(2代)
雄別炭礦鉄道9045(←鉄道省)。1953年10月、初代9046と振替。1958年12月10日廃車
8105(初代)
旧定山渓鉄道8105(←鉄道院8100形)。1958年12月入線。1963年6月、2代目8105(旧8111)と振替
8108(初代)
旧定山渓鉄道8108(←鉄道院8100形)。1958年12月入線。1963年6月、2代目8108(旧8119)と振替
8105(2代)
茅沼炭鉱8111(←鉄道院8100形)。1963年6月、初代8105と振替。廃止時まで在籍
8108(2代)
旧茅沼炭鉱8119(←鉄道院8100形)。1963年6月、初代8108と振替。廃止時まで在籍

[編集] ディーゼル機関車

DB501
1952年汽車製造製のL形機械式ディーゼル機関車。1953年3月竣功。1966年8月廃車
DC512
1955年汽車製造製のL形液体式ディーゼル機関車。1956年3月竣功。廃止時まで在籍

[編集] 気動車

キハ1
1932年汽車製造製の機械式気動車。もとは成田鉄道(2代)ヘテ301で、東武鉄道キサ11を経て、1954年に入線。廃止時まで在籍

[編集] 客車

ハ1、2
開業時に用意された1903年鉄道作業局新橋工場製の木造2軸客車。ロ188、172として新製され、払下げ時はロ435、439で、寿都ではロ1、2と称した。1914年度中にロ1はフロハ1となり、ロ2はフロ2となった。その後、戦時中にフロハ1は国鉄五稜郭工機部で、フロ2は苗穂工機部で車体更新され、ハ1、2となった。1956年10月廃車
ハ3、4
開業時に用意された1893年、1894年平岡工場製の木造2軸客車。参宮鉄道に4、5として新製され、払下げ時はハ2356、2357であった。1956年10月廃車
ハ5
1930年5月入線の木造2軸客車。もとは1898年新潟鉄工所製の北越鉄道ハ37で、払下げ時はハ2357であった。1956年10月廃車
ハ6(初代)
1940年11月入線の木造2軸客車。もとは1902年汽車製造製の参宮鉄道「は54」で、払下げ時はハ2398であった。1956年10月廃車
ニ1
1936年7月入線の木造2軸客車。1906年日本鉄道大宮工場製の「に82」として新製され、払下げ時はニ4306であった。1956年10月廃車
オハ8518
1952年11月入線の木造3軸ボギー客車。もとは1909年11月鉄道院オイ8→オイ9231→ナロハ9416→オロハ8231→オハ8518ということになっているが、オイ5→オイ9251→ナイロフ7882で、戦時中の通勤車改造の際入れ替わったらしい。廃止時まで在籍したことになっているが、現車は解体済みであった
ハ6(2代)
1957年3月入線の半鋼製片ボギー式客車。もとは1930年汽車製造東京支店製の北九州鉄道キハ7で、国有化によりキハ5024となり、下野電気鉄道、東武矢板線キサ24→キサ21を経て、寿都入りしたもの。書類上、初代ハ6の車籍を引き継いでおり、入線時の番号はハ21であったが、後に2代目ハ6に改番された。廃止時まで在籍
ユニ1
1954年10月に入線した半鋼製2軸客車。もとは1932年日本車輌製造東京支店製の相模鉄道(現在の相模線)キハ101で、同線の国有化に際して神中線(現在の相模鉄道本線)に転じ、電化にともなって余剰となっていたものを譲り受けた

[編集] バス

前述のとおり、鉄道は末期には上りのみ1便の運行であったが、鉄道を補完するためバスの運行を行っていた。路線は寿都駅から中の川駅、黒松内駅を経由して長万部町国縫駅まで結んでいた。北海道中央バスへ路線を移譲した際、長万部駅までの運行となったため、その後の北海道中央バス、ニセコバスの時刻表には1997年頃まで長万部駅乗り継ぎの函館バスの時刻が掲載されていた。

[編集] 脚注

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  1. ^ 鉄道敷設法別表130号の2「後志國黒松内ヨリ岩内附近ニ至ル鐡道」
  2. ^ 「振替」は許認可上の正式な用語ではない。小熊・星 (1967) によると、この鉄道では、実車は2代目と入れ替えるものの、書類上は番号・仕様とも変更なく初代であるとして使用することがあったという。

[編集] 参考文献

  • 小熊米雄・星良介 (1967). “寿都鉄道”. 鉄道ピクトリアル No. 199 (1967年7月臨時増刊号:私鉄車両めぐり8): pp. 4-5, 11-19.(再録:『私鉄車両めぐり特輯』2、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年。
  • 青木栄一 「昭和52年5月1日現在における補遺」『私鉄車両めぐり特輯』2、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺3頁。
  • 寺田裕一 『消えた轍―ローカル私鉄廃線跡探訪』 ネコ・パブリッシング、1999年。

[編集] 関連項目