宋慶

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宋慶

宋 慶(そう けい、Song Qing1820年 - 1902年)、字は祝三末の軍人。

山東省蓬莱県出身。24歳のとき同郷の亳州知州宮国勛の衛士となり、宮の推薦で千総となった。以後、宋慶の部隊は河南省南部から安徽省北部にかけて捻軍と戦った。1862年、功績により総兵に昇進し、バトゥルの称号を得た。その後淮軍に編入されて三営を統括し、宋慶の軍は「毅軍」と称されるようになった。

毅軍成立後も功績をあげ、1864年にはセンゲリンチン(僧格林沁)が苗沛霖を滅ぼすのを助けた。1865年から1868年の間、河南省・安徽省・直隷省湖北省・山東省で捻軍と戦っている。その間に宋慶は南陽鎮総兵となって、河南省に毅軍の根拠地を置き、捻軍鎮圧後も解散されることなく、河南省に駐屯した。1869年左宗棠回民蜂起の鎮圧に向かうとこれに従った。その後、湖南提督・四川提督に任命されたが実際には赴いていない。

1880年ロシアとの関係が緊張すると、清朝は旅順を軍港として経営することを始め、毅軍に旅順の防衛にあたらせた。宋慶は十数年にわたって旅順に駐屯し、日清戦争の直前には九営の軍を擁するまでになった。

1894年、日清戦争が勃発すると、李鴻章の命により九連城に赴き、葉志超に代わって前方各軍を指揮した。しかし諸将を統率できず、軍紀も乱れていたため旅順の陥落を招くこととなった。その後、劉坤一を補佐して営口を守っていたが、再び日本軍に敗れ、遼河以東の領土を失ったため処罰された。

1898年、毅軍は武衛左軍と改称され、錦州に駐屯した。1900年義和団の乱の際は天津から北京に進撃する八か国連合軍に北倉で敗北した。

1902年、病死。