小湊町 (千葉県)

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安房小湊から転送)
こみなとまち
小湊町
誕生寺祖師堂(2006年撮影)
誕生寺祖師堂(2006年撮影)
廃止日 1955年2月11日
廃止理由 新設合併
小湊町天津町天津小湊町
現在の自治体 鴨川市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 千葉県
安房郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 15.81 km2.
総人口 4,237
国勢調査、1950年)
隣接自治体 安房郡天津町
夷隅郡大多喜町興津町上野村
小湊町役場
所在地 千葉県安房郡小湊町大字内浦
座標 北緯35度07分48秒 東経140度11分29秒 / 北緯35.12992度 東経140.19136度 / 35.12992; 140.19136 (小湊町)座標: 北緯35度07分48秒 東経140度11分29秒 / 北緯35.12992度 東経140.19136度 / 35.12992; 140.19136 (小湊町)
小湊町 (千葉県)の位置(千葉県内)
小湊町 (千葉県)
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小湊町(こみなとまち)は、かつて千葉県安房郡に存在した。現在の鴨川市東部に位置する。

1889年町村制施行に際して長狭郡湊村(みなとむら)として発足。1928年の町制施行とともに小湊町に改称した。昭和の大合併により天津小湊町の一部となり廃止された。

本項では、前史として中世以降の小湊とその周辺についても扱う。小湊は日蓮の出生地として知られ、誕生寺門前町として発展した[1][2]。また、内浦湾を抱えることから江戸時代には廻船の寄港地として栄えた[3]

地理[編集]

安房国の東端、現在の鴨川市域の東部に位置する。南に太平洋に面しており、内浦湾が湾入する。町域は房総丘陵に位置しており、山がちな地形である。内浦湾一帯は鯛の浦として知られるタイの群生地である。

現在の鴨川市域を、鴨川市成立時およびその後の合併時の町村によって4地区に区分する場合、「天津小湊地区」の一部に位置付けられており、その東部にあたる。鴨川市域を町村制施行当時の町村(旧町村)によって12地区に区分する場合は「小湊地区」とされ[4]、現在の大字では小湊(こみなと)・内浦(うちうら)が含まれる[4][注釈 1]

1926年(大正15年)時点の湊村は、西に天津町、東北に夷隅郡老川村上野村清海村(のちの興津町)と接していた[6]。なお、北東の山地を岩高山脈、西の山脈を松ヶ鼻山脈と称した[6]。当時、町は内浦小湊の2つの大字に分けていた[6]

歴史[編集]

前近代[編集]

歌川広重六十余州名所図会 安房 小湊 内浦』。天津側の峠から望む内浦湾。大きな屋根を持つ誕生寺も描かれている。広重は嘉永5年(1852年)春に房総を旅行しており、この作品はその際の実景写生をもとに描かれたと考えられている[7]

小湊という地名が史料に現れるのは鎌倉時代以降で、日蓮とのかかわりのなかで見いだされる[3]内浦という地名は、「誕生寺旧記」によればもともと岡村・市川村・小湊村の総称として使われていたという[6]

貞応元年(1222年)、日蓮は「長狭郡東条郷片海[注釈 2]」に生まれた。現在の小湊浦の大弁天島・小弁天島の辺りとされている[3][注釈 3]。日蓮が文永12年(1275年)に新尼御前に出した礼状には 「かたうみ(片海)、いちかわ(市川)、こみなと(小湊)」と故郷の地名が列挙されている[3]

建治2年(1276年)、日蓮の弟子の日家によって日蓮の生家跡に誕生寺が建立された。明応7年(1498年)の明応地震では、地震と津波によって被災した[11]。この際、誕生寺が建てられていた日蓮の生誕地は海没して磯となり(「蓮華潭」(れんげがふち)と呼ばれるようになった)[9]、市川村は大半が海になったとされる[6][12]。このため、誕生寺は妙の浦(鯛の浦)に移転した[11]

誕生寺は領主の保護を受け、江戸時代初頭には館山藩里見氏のもとで70石の寺領(内訳、小湊村53石、市川村14石、内浦村3石)を与えられていた[3]。現在の大字小湊の全域と内浦の一部にあたる[3]。慶長19年(1614年)の館山藩改易後も寺領70石は幕府によって認められた。

江戸時代初期に東廻り航路が整備されると、小湊浦(内浦湾)に番所が設けられ、浦役人が派遣されて、廻船の援助と監視にあたった[3](港の歴史については小湊漁港参照)。港は、難所とされた野島崎沖を越えるための良風を待つ避難港として栄えた[3]。また、東北諸藩も廻船を扱う役所や浦役人を置いた[3]。元禄14年(1701年)の記録では132軒があったとされる[3]。元禄12年(1699年)には小湊村と市川村の間で港をめぐる争論があり[13]、両村の入会港とすることが裁決された[13](「房州長狭郡内浦之内市川村と小湊村争論裁許絵図」)。

元禄16年(1703年)の元禄地震では津波により大きな被害が出(小湊では津波によって164名の死者が出た[11])、また土地が海中に沈降した。市川村は土地と家屋を失い[12]、のち天保年間に内浦村に組み込まれることになった[12]。誕生寺はこの地震でも被災して現在地に移転したと言われるが[11]、一方で先述の港争論の裁定を描いた元禄13年(1700年)の地図にはすでに現在地に描かれており[11]、移転の時期は不明である[11]

近代[編集]

安房郡域の町村制施行時の町村
(※1897年に平郡・朝夷郡・長狭郡を安房郡に編入)
1.北条町 2.館山町 3.豊津村 4.西岬村 5.富崎村 6.長尾村 7.豊房村 8.神戸村 9.館野村 10.九重村 11.稲都村
平郡】21.凪原村〔のち那古町〕 22.船形村 23.八束村 24.富浦村 25.岩井村 26.勝山村 27.保田村 28.佐久間村 29.平群村 30.滝田村 31.国府村
朝夷郡】41.白浜村 42.七浦村 43.曦村〔のち千倉町〕 44.健田村 45.千歳村 46.豊田村 47.丸村 48.北三原村 49.南三原村 50.和田村 51.江見村
長狭郡】61.太海村 62.大山村 63.吉尾村 64.由基村〔のち主基村〕 65.田原村 66.鴨川町 67.曽呂村 68.西条村 69.東条村 70.天津村 71.湊村〔のち小湊町〕
現在の行政区画
赤:館山市 桃:鴨川市 紫:南房総市 橙:鋸南町

明治4年(1871年)、境内地を除く寺領は上知を命じられ、木更津県、ついで千葉県の管轄となった[3]

1878年(明治11年)、千葉県に郡区町村編制法が施行されると、内浦村・小湊村は1つの連合(連合戸長役場)となった。

1889年(明治22年)、町村制の施行にともない、内浦村・小湊村が合併し、湊村が発足[14]。戸数488戸(小湊189戸・内浦299戸)、人口2,927人(小湊1,152人・内浦1,775人)[3]。『明治22年千葉県町村分合資料』に記載された湊村の「新村名撰定ノ事由」によれば、小湊村のほうが著名であるが、内浦村のほうが資力・戸数で勝ることから、一方の名称を存続させることが避けられた[14]。小湊村からは一字を採り、内浦村は良港を擁することにちなみ、「湊村」が新村名として選ばれた[14]

1922年(大正11年)には「鯛の浦」が天然記念物に指定された[注釈 4]

1928年(昭和3年)に町制を施行し、この際に小湊町と改名した。

1929年(昭和4年)、房総線(現在の外房線にあたる)の上総興津駅 - 安房鴨川駅間が延伸開業し、安房小湊駅が開業した。なお、安房小湊駅は大字内浦に所在する。

1932年(昭和7年)、水産講習所(現在の東京海洋大学)の小湊実習場が開設された[3][注釈 5]。小湊実習場本館は鉄筋コンクリート製の円筒形の建物で新たな町のシンボル的存在になったとされる[3]。本館1階には水族館が設けられ、名所となった[3][注釈 6]

鉄道の開通は、水産物の消費地への輸送に利便をもたらした[3]。1938年(昭和13年)以後、防波堤の整備など小湊漁港の修築工事や浚渫が行われ、70-80トン級の漁船の自由な出入りが可能になった[3]

第二次世界大戦後も漁港の整備は続けられた[3]。1948年(昭和23年)にはアイオン台風により漁港が被害を受けたが、復旧工事を通して200トン級の漁船が出入り可能となった[3]

1955年(昭和30年)、西隣の天津町と合併し、天津小湊町が発足した。

町域の変遷[編集]

変遷表

1868年
以前
明治22年
4月1日
明治30年
4月1日
昭和3年
11月10日
昭和30年
2月11日
平成17年
2月11日
現在
長狭郡 内浦村 湊村 安房郡
に編入
湊村 小湊町
町制改称
天津小湊町 鴨川市 鴨川市
小湊村

人口・世帯[編集]

人口[編集]

総数 [単位: 人]

500
1,000
1,500
2,000
2,500
3,000
1891年(明治24年)
1921年(大正10年)

世帯[編集]

経済[編集]

1888年(明治21年)に記された分合取調文書によれば、住民はおおむね漁業と農業で生計を立てていたとある[14]

1926年(大正15年)の『安房郡誌』によれば、林野が多く耕地は少ないとされる[13]。住民の多数は漁業に従事しており、ヒラメやマグロなどを獲っていた[13]。このほか林産物として薪炭、農家の副業として洋傘の柄の製造が挙げられている[13]

交通[編集]

鉄道[編集]

安房小湊駅(2007年)。改修は加わっているが、1929年開業当時の原型を保っている[15]

なお、小湊鉄道は、小湊の誕生寺への参拝客輸送を見込んで1917年(大正6年)に設立された会社で、1925年(大正14年)以後五井駅(現在の市原市)を起点とする小湊鉄道線を順次延伸させ上総中野駅(現在の大多喜町)まで開通したが、資金面・技術面の困難のため小湊への延伸は断念された。1928年から29年にかけて終点となるべき小湊で工事に着手はしており、JR安房小湊駅付近に盛り土の跡などが残る[16]

道路[編集]

古くは、勝浦市域に至る道は海岸の崖の中腹を通り、「おせんころがし」と呼ばれる難所であった。

名所・旧跡・祭事[編集]

誕生寺仁王門(1706年(宝永3年)建立、千葉県指定有形文化財)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 大字の読みは日本郵便の郵便番号検索[5]による。
  2. ^ 日蓮の生誕地「片海」の地名は江戸時代初期までは史料で用いられていたが、元禄以後は使われなくなった[3]
  3. ^ 日蓮の生誕に際しては奇瑞があったと伝承されており[8]、浜辺に時ならぬ蓮華の花が咲き[8][9]、海に大小の鯛が集まり[8]、庭先から泉が湧き出たという[8][10]
  4. ^ のち、1967年に特別天然記念物に指定されている。
  5. ^ 水産講習所の実習場はそれまで館山町の高島に設けられていたが、関東大震災による海岸の隆起とそれを利用した海軍館山飛行場建設にともない移転することとなった。
  6. ^ 水産講習所は、第二次世界大戦後東京水産大学に移行。実習場は1980年に館山市坂田に移転した。小湊実習場跡地は千葉大学に移管され、千葉大学バイオシステム研究センターとして利用されている[3]

出典[編集]

  1. ^ 天津小湊(町)”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク所収). 平凡社. 2018年4月4日閲覧。
  2. ^ 山村順次. “天津小湊”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 小学館. 2018年4月4日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 浅岡力. “小湊漁港の「みなと文化」”. 港別みなと文化アーカイブス(みなと文化研究事業). 財団法人港湾空間高度化環境研究センター. 2018年7月6日閲覧。
  4. ^ a b 大字別世帯数および人口” (pdf). 鴨川市統計書 平成28年版. 鴨川市役所. pp. 18-19. 2018年4月4日閲覧。
  5. ^ 郵便番号検索
  6. ^ a b c d e 千葉県安房郡教育会(編) 1926, p. 1102.
  7. ^ 風景画16.六十余州名所図会 安房小湊内浦”. 船橋市. 2018年4月4日閲覧。
  8. ^ a b c d 日蓮聖人”. 大本山小湊誕生寺. 2018年7月6日閲覧。
  9. ^ a b 14.蓮華潭涌現の宝塔”. 大本山小湊誕生寺. 2018年7月6日閲覧。
  10. ^ 13.誕生水の井戸”. 大本山小湊誕生寺. 2018年7月6日閲覧。
  11. ^ a b c d e f 44.誕生寺と震災”. 大本山小湊誕生寺. 2018年7月6日閲覧。
  12. ^ a b c 天津小湊の市川村(現在は千葉県鴨川市)は津波で海中に沈んだと聞いたが、そのことについて書かれた資料を見たい。”. レファレンス共同データベース. 国立国会図書館. 2019年2月16日閲覧。
  13. ^ a b c d e 千葉県安房郡教育会(編) 1926, p. 1103.
  14. ^ a b c d 湊村」『明治22年千葉県町村分合資料 十八 長狭町村分合取調』、53-頁http://e-library.gprime.jp/lib_pref_chiba/da/detail?tilcod=0000000014-CHB6002102018年4月4日閲覧 
  15. ^ JR東日本安房小湊駅”. ウェブ版千葉県の産業・交通遺跡. 千葉県立現代産業科学館. 2018年7月6日閲覧。
  16. ^ 第37回 幻の小湊鉄道小湊駅 ―大正時代から続く鹿島とのつながり―”. 鹿島の軌跡. 鹿島建設. 2018年7月6日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]