安寿と厨子王丸

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安寿と厨子王丸(あんじゅとずしおうまる)は、童話。『安寿と厨子王』とも。

中世に成立した説経節さんせう太夫』を原作として浄瑠璃などの演目で演じられてきたものをこども向けに改変したもの。ゆかりのある各地で民話化している。近世になり絵本などの書物にて児童文学ともなっている。

ストーリーは磐城の官人の子、安寿、厨子王の姉弟が山椒大夫の奸計により母と離ればなれになり、安寿の犠牲の後、厨子王が母と再会するというもの。

[編集] あらすじ

前の奥羽五十六郡の太守、岩城判官正氏の一族は、讒言によって筑紫に流された。本国に残され落魄した正氏の妻と、その2人の子供、安寿と厨子王は、正氏を訪ね求めて越後直江津にたどり着いたとき、人買いの山岡太夫の手にかかり、妻は佐渡二郎の手で佐渡に、姉弟は宮崎という人買いの手で丹後由良湊の長者である山椒太夫にそれぞれ売り渡された。山椒大夫のもとで姉弟は酷使された。弟は1日に3荷の柴を刈れ、姉は1日に3荷の潮汲みをしろ、間があれば藻潮を焼く手伝いをしろ、糸を紡げ、と追使われ、弟は柴刈り払う鎌を怨み、姉は潮汲む桶に泣いた。

ある日姉の安寿は、弟厨子王に勧めて密かに逃れさせようとした罰として額に焼け火箸を当てられた。しかし肌の守りの地蔵尊のおかげで痕がつかなかった。

姉弟はついに、再会を約して逃亡を図った。しかし、安寿姫は都へと行くのをためらう厨子王に都へ行くのを進めて山椒やかたの近くの沼に身を投げて亡くなった。安寿姫の亡骸は村人により丁重に葬られ、現在その地に祠と小さな公園がある(安寿姫塚)。時に永保2年正月16日、安寿16歳、厨子王13歳であったという。

一方、厨子王は丹後の国分寺に逃げ込んで寺僧に助けられ、京都七条朱雀の権現堂に送られた。さらにまた摂津天王寺に寄食するうちに梅津某の養子となり、ついに一家没落の経緯を朝廷に奏上した。結果、判官正氏の罪は赦された上旧国を与えられ、讒言者の領地は没収され厨子王に下賜された。

安寿姫の霊はその後母と弟を守護し、岩城家再興の機運にめぐまれた厨子王は、丹後、越後、佐渡のなかで若干の土地を得たいと願い出て許され、領主となって丹後に行き、ねんごろに国分寺の僧侶にむくい、山椒大夫と子三郎とを鋸挽きの刑に処し、越後で山岡太夫を討ち取った。母を佐渡にたずね、片辺鹿野浦で、母が瞽女(ごぜ)となって鳥を追う唄をうたっているのにめぐりあった。「安寿恋しやホゥヤレホ 厨子王恋しやホゥヤレホ」。厨子王は、この歌を聞いてこれぞ母と知り、駆け寄りすがりついた。うれし涙に霊しくも母の眼は開き、母子は再び抱き合ったという。

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