宇喜多興家

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宇喜多興家
時代 戦国時代
生誕 明応6年(1497年)?
死没 天文5年(1536年[1]または同9年(1540年
改名 八郎(幼名)→興家
戒名 露月光珍
墓所 岡山県瀬戸内市長船町の妙興寺
氏族 宇喜多氏
父母 父:宇喜多能家?
兄弟 興家四郎
阿部善定(あべぜんじょう)娘
阿辺定善(あべじょうぜん)下女[1]
阿部善定娘と阿辺定善下女の両方
直家?、忠家?、春家?[1][2]伊賀久隆室、
牧国信
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宇喜多 興家(うきた おきいえ)は、戦国時代武将備前国国人浦上氏の家臣。宇喜多能家の嫡男とされるが、近年存在も含めて否定されている。

生涯[編集]

浦上氏家臣の砥石城主・宇喜多能家の嫡男として誕生。島村一族の元服前の子供衆と諍論の挙げ句殺害されたと見られる。この際、喧嘩両成敗で子供衆も殺害され、その調停に島村盛貫が携わった[3]

この興家殺害事件は、伝承の中で盛貫による興家殺害、さらに盛貫の名前が誤記された盛実[4]、史料上確認できない観(貫)阿弥による能家殺害、そこから直家による仇討ち談へと説話・物語として発展していった。『備前軍記』より28年、『天神山記』より41年早く成立し、能家が葬られたと伝わる邑久郡大賀島寺の『宇喜多元家甲冑記』では「能家之子を興家といふ、島村某か為に敗られ卒す」と記され、甲冑記に先行する『西国太平記』『宇喜多系図』『吉備前鑑』では、いずれも観(貫)阿弥が殺害したのは直家の父としている。

宇喜多家ゆかりの光珍寺過去帳では、興家の命日は「天文五年六月晦日」。

説話[編集]

大永4年(1524年)、父・能家より家督を譲られるが、天文3年(1534年)に父が島村盛実により砥石城を攻められ自害すると、子・直家を連れ備後国鞆津まで落ち延びる。

後に備前福岡の豪商・阿部善定に庇護されると、善定の娘を娶り、忠家、春家の男児2人[2]に恵まれた。なお、『常山紀談』では興家は愚であったため、阿辺定善に養われて牛飼童となり、年経て召使ふ下女を娶わせて子が3人、直家・忠家・春家としている。

天文5年[1]1536年)に病死した。なお、没年は天文9年(1540年)とする説もある。また家臣たちに暗愚と言われ、そのストレスで自害し、このことが家臣や嫡子・直家の混乱を招くと考えた正室や側妻、重臣らが自害したことを隠すため病死したと嘘をついたという説もある。ただ、直家は興家が自害したことを見抜いていたともいう。

既に家督を譲られ家長となっていたにもかかわらず、抵抗もせず城を明け渡し逃亡したことを受け、興家は暗愚であった[1]と後世評されるが、宇喜多の家名や幼い直家を守るためにあえて暗愚を装っていたという説もある。

興家の家督継承に関する新展開[編集]

興家の名前が初めて登場するのは、直家の時代から150年ほど経った『和気絹』であり、延宝6年(1678年)に記された『西国太平記』では「父某が島村観阿弥に殺された」と記されている。

加えて、近年発見された文書によれば、天文10年〜同12年(1541年1543年)に、山科言継が山科家領の年貢催促を晴政(赤松晴政あるいは中山晴政)と宇喜多和泉守に依頼している。この文書によって、同時期まで能家が生きていた、あるいは能家の後継者の宇喜多和泉守が後継者として活躍していたことが確認でき、同時に興家の宇喜多家継承や能家との親子関係も疑問視されるようになった[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 湯浅常山の著書『常山紀談
  2. ^ a b 忠家と春家は同一人物であるとする説もある。宇喜多忠家#春家との同一人物説宇喜多春家#同一人物説を参照。
  3. ^ 島村豊「浦上家宿老、島村氏の研究(ニ)」 『岡山地方紙研究 145号』 岡山地方紙研究会 2019年8月 pp.25-29
  4. ^ 旧字体でうかんむりを除く部分が同じであることから誤記・誤読された。
  5. ^ 戦国史研究会編『戦国史研究 71』(吉川弘文館、2016年)

参考文献[編集]

  • 渡邊大門『戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力』岩田書院、2011年。
  • 渡邊大門『宇喜多直家・秀家』ミネルヴァ書房、2011年。