学校法人叡明館
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| 国公私立の別 | 私立学校 |
|---|---|
| 設置者 | 学校法人叡明館 |
| 設立年月日 | 1984年 |
| 共学・別学 | 男子校のち男女別学 |
| 中高一貫教育 | 叡明館中等部 |
| 課程 | 全日制課程 |
| 単位制・学年制 | 学年制 |
| 設置学科 | 普通科 |
| 所在地 | 〒924-0848 |
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石川県白山市長島町1001
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叡明館(えいめいかん、正式名称:学校法人叡明館、EIMEIという名称を使用することもある)とは中高一貫教育の全寮制男子校の叡明館高等部・中等部として石川県松任市(現・白山市)長島町1001番地に所在し、1984年4月に開校、現在は廃止された私立学校である。
目次 |
[編集] 概要
イギリスの名門イートン校をモデルとする中高一貫教育(全6年間)、全寮制。設立当初は男子校。当時、中高一貫教育の学校が新たに設立されることは無く北陸では初の試みであった。生徒数は1学年およそ平均30名、全校で約200名(平成元年頃推定)。全国各地、北は北海道、南は沖縄からの生徒が入学していた。中学1年〜3年を中等部、高校1年〜3年を高等部と呼ぶ。
この地域の天候は、北陸ということと、海側で周辺には田畑しか無いことから、風は日常的に強く、雷も落ちやすい。雪が降ると陸の孤島になる。
飲食物の持ち込みは一切禁止され校内に自動販売機の設置は無かった。金銭は原則事務所で管理され外出時には申請の元、受け渡しされていた。外出は原則日曜日の9時~17時のみ(帰宅日という一時帰宅が許される日もあった)。外出時には日曜日であっても制服の着用を義務づけられていた。身分証番号は5桁で年号2桁(昭和61年の場合「61」)、生徒番号3桁(あいうえお順)で構成されていた。
[編集] 年表
- 1984年(昭和59年) - 開校
- 1985年(昭和60年) - 体育館、プール施設建設
- 1986年(昭和61年) - 全6学年が揃う
- 1988年(昭和63年) - 桂寮建設
- 1990年(平成2年) - 初の東大合格者
- 1994年(平成6年) - 男子校より共学校へ移行、全寮制も一部自宅登校制へ
- 1995年(平成7年) - 資金難により事実上廃校
[編集] 施設
寮棟(画像参照)と学校棟に分かれ、寮棟は4階、学校棟は3階鉄筋コンクリート建て。体育館、プール、テニスコート、運動場があった。
運動場は一般的な学校のように整備されておらず、石がまだらに散乱していたため、体育祭などのイベントの前には石拾いを行うことがあった。学校棟には図書館棟が作られる計画もあったが実現しなかった。
[編集] 寮棟
寮は3つが連なり各寮は「梓(あずさ)」「柏(かしわ)」「桂(かつら)(開校数年後に増設された)」という呼称をされ分かれていた。トイレは各階に2カ所、男子専用。その横に洗面室が併設されそこに全自動洗濯機と2層式洗濯機が1台ずつあった。2階以上には学習室が1部屋、談話室が1ヶ所あった。
- 部屋
- 寮内の部屋に関しては原則4人に1部屋が割り当てられ室内は全て備え付け家具であった。4つの机、2つの2段ベッド、4つのタンス、靴箱で構成され、全室均等な造り。ベッドには貴重品ケースがカギ付きで備え付けられていた。
- 暖房は全館温水循環型が各部屋に1つ設置され冷房器具は無かった。
- 1つの寮は9から1まで部屋番号が階ごとにふられていた[1]。
- 特別な点としては、各部屋の中側ドアの上側横に、その部屋ごとに主電源ブレーカーがあった。これは舎監が消灯時間になった時に全ての電力を落とすという設計意図だったと思われる。
- ベランダには雨水用の太め(直径20センチほど)の配水管が2部屋ごとの間に4階から1階の上から下へ設置されており、この配水管を伝うことによる1階から4階までのベランダ間の移動が一部の学年で日常に行われていた。
- 各部屋の天井はモルタル系の壁が吊られている構造で天井には人が入り横になれるほどの空間があった。各部屋の壁は2部屋ごとにコンクリートで仕切られていた。例えば、201と202の間はコンクリートではなく、202と203の間はコンクリートだった。この為各部屋の片側の壁に耳を当てると多少の声は判別できた。
- 地下
- 地下には上下水管、温水暖房ダクトなどがあり寮内に4ヶ所地下に通じる入り口が廊下に存在した。昭和63年までこのことを知っている者は生徒以外にいなかったようでそれまでは鍵もかかっていなかった。
- 屋上
- 進入路は正規には梓の階段の5階からのカギのかかったドアのみだがベランダを伝っての進入路もあった。4階から屋上へは構造上登ることができるが屋上から4階へ戻る際の足場はかなり悪かった。
- 自転車倉庫
- 自転車倉庫は当初事務所前の右側のスペースに数十台収納されていたが後にその外側の位置する場所に新たに倉庫が造られ移動した。その後元の場所は乾燥室となった。
- 事務所
- 事務所内にはメインの部屋が中央にあり入って右側には宿泊ができるように和室が1部屋、簡易的なリビングと台所が存在した。
- 設立時には舎監の宿泊や管理人の住み込みを想定していた節があるが実際の運用では重度の違反者を罰として隔離する際に利用されていた。
- 入って左奥にリネン室があり、ここには購買部という日用品が購入できる空間とクリーニングの仕上がりを受け取る棚があった。購買部の在庫やEIMEIトレーナーやジャージもここにあり、生徒がいる空間と在庫の空間は壁で仕切られていた。
[編集] 学校棟
各学年には2クラス用として2教室ずつが割り当てられ、中等部1、2、3年は2階。高等部1、2、3年は3階。
- 教室
- 約40名が収容可能な黒板がある一般的な造りの教室。寮が隣接していることもありロッカー類は無かった。ベランダも無かった。
- 暖房設備は温水循環型のヒータ2機が設置されていた。教室内の温度が低い場合には、生徒は全員暖房設備に近づき温風が出る上部に座り込んだのだが、この設備の噴出し口はプラスチックで作られており、座ると真中から割れるため、全教室で冬季だけで相当数が破損することが続き、学校側は割れないための部品を設置する修繕を行った。
- 冷房設備は無かった。
- 体育館
- 体育館は出入り口内にベンチプレス、腹筋器具が並んでいた。入って右側にはシャワー室(使用されず)、左側手前に手洗い、その横に体育教員室があった。
- 体育館に入ると右側奥に体育設備(マット、跳び箱、掃除器具)が収納される倉庫があった。奥には壇上があり、壇上下は入学式などで使用されるマットやおりたたみイスが収納されていた。
- 体育館の窓には遮光カーテンがあり、それらを使用する用途のために、側面には階段があり、2階位置に登ることができた。その奥には両側に部屋があり一時期バンド練習などの部屋として利用されていた。
- 学校行事として体育館では早朝の剣道練習が全校生徒で早朝5時に行われた時期があった。体育館では授業終了後部活動が行われていた。
- 一時期は剣道部、卓球部、バレーボール部が使用していた。
- その他の部屋
- 職員室は学校棟の1階一番奥にあった。設立当初の予定では図書館棟などの増設が予定されておりその際に職員室も移設される段取りだった模様。
- 教室2つ分ほどの広さに三管式プロジェクターが天井に備え付けられ100インチ相当の映像視聴が行えた。映像機器はLD、ベータマックス、VHS。当初は一般的なラックに備え付けられていたが盗難事件が発生したため、カギ付きのものに替わった。
- 理科室には本教室と隣接した教員室があり理科担当教員がほぼ在室していた。室内の壁側には様々な機器や設備が収納されていた。
[編集] 寮生活
[編集] 外出
設立当初は、外出は外出日にしか許されず、毎週日曜日のみ午前9時〜午後5時までが外出時間となっていた。主な外出先は旧・松任市内か金沢市内。主に片町、竪町周辺での行動が多かった。
自転車は叡明館が所有する青色のママチャリを、事務所で管理される鍵を日曜日ごとに申請し貸し出しされていた。
[編集] 生活
- チャイム
- 寮生活では日々の行動の起点として寮内放送によるチャイムが使われていた。「ピーンポーンパーンポーーーン♪」という普通の音色で、1回「通常呼び出しの前ふり」、2回、3回「点呼」と意味を持っており通常は舎監が放送することが多い。
- 点呼
- 起床時、就寝前には点呼と呼ばれる寮生徒の確認が行われていた。このことで寮生徒の異常を察知していた(病気、脱走、事故など)。実際、脱走者は2年に1名ほどいた。
- ジョギング
- 設立当初は起床時に点呼の後1kmほどジョギングを行っていた(雨の日は行わなかった)。寮生活の監視管理は舎監が担当する(自衛隊の退職者が多かった)。
- 夜間外出、無断外出
- 夜間外出や無断外出は禁止されていた。
- テレビ
- テレビは談話室に14インチが5台設置されており、16時頃(部活終了時)〜18時頃(夕食開始時)、21時〜22時までの視聴が許されていた。
- 日用品
- 日常品は、寮入り口にある事務所の横にリネン室があり、その中に購買部という日常品を販売するところがあった。支払いは月額分を親元へ請求されていた。
- 電話
- 電話に関しては主に親元からの電話が21:00〜21:55の自由時間にかかっていた。着信を寮内放送にて知らせその間保留をされ呼び出し本人が来るのを待つ流れだった。
- 寮は4階建てのため最も遠い部屋からは徒歩4分ほどかかり長距離電話の通話料の兼ね合いもあったので呼び出された本人は走ってくることが多かった。
- 公衆電話(グリーンのテレホンカード式MC-4PN)が事務所前に2台(昭和61年時点)設置されておりその後3台(昭和63年時点)に増設された。この公衆電話で親元などに電話をした。
- 夜間第一学習
- 第一学習時間は19時〜21時まで行われた。一時期は中等部1年生は学校に登校しNHK基礎英語のカセットを聴きながらテキストと一緒に学習を行っていた。中等部1年生以外でもその日の担当教員によって学校や食堂で授業を行った。寮内の部屋での学習の場合には担当教員が絶えず見回りをし監視していた。
- 夜食
- 21時に夜食が配られた。主にパンが1人に1個配られた。素うどんが出される日もあった。
- 夜間第二学習
- 22:00〜23:30までを第二学習時間と定めていたが実際にはこの時間に教員が見回りすることは殆ど無くコミュニケーションや就寝の時間となっていた。
[編集] 服装
制服はブレザー、ネクタイを着用。夏服と冬服があり、夏服はグレー、冬服は紺でコートもあった。靴下は紺か黒。設立当初は規律が特に厳しく、校内での服装にはブルーのジーンズ(黒など他の色は駄目)とEIMEIトレーナーのみが許されていた。
履き物は全員ベンハーというスリッパのみが許された。
[編集] 学校行事
[編集] 近況(廃校以来)
廃校時は「学校がつぶれた」と大きくニュースで扱われた。
廃校後、関西の専門学校、学校法人京都科学技術学園に買い取られ叡明館高校(名称はそのままだが、経営実態は無関係)として開校したが3年ほどで廃校。
現在その校舎はシステム関連会社株式会社ジェイ・エス・エスに買い取られ第二アウトソーシングセンターとなっている。一部では石川県のアウトソーシング関連の事業で施設を利用するという話もあるが真相は不明。
[編集] その他
- 広大な敷地の周辺には田畑しか存在せず、幹線道路から遠くに見える叡明館は「陸の孤島」と呼ばれていた。
- 周囲には田畑以外に一部梨畑があり生徒が盗んだ際にはその生徒は丸坊主となった。
- 寮生活ガイドには「体力のない秀才は、結局人生で負けますから、自分の健康の維持及び体力の向上に努めましょう」とあった。
- 香川県にある英明高等学校とは何ら関係は無い。
- Googleで叡明館を検索すると『叡明館はモルモン教が運営していた』という記載があるが実際には金沢市内のカトリック教会から牧師が来て講義を行っていた。
- 水泳など一部の競技に秀でた生徒がいて、標準タイムをクリアして県大会に出場していた。

