妖精の接吻

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妖精の接吻』(ようせいのせっぷん、『妖精の口づけ』とも、: Le Baiser de la fée )は、1928年イダ・ルビンシュタイン一座の旗揚げ公演で発表された、1幕4場からなるバレエ作品。音楽はイーゴリ・ストラヴィンスキーチャイコフスキーの歌曲やピアノ曲の旋律に基づいて作曲し、台本は同じくストラヴィンスキーが、アンデルセンの『雪の女王』の舞台設定をスイスにして作成した。

初演時の振付はブロニスラヴァ・ニジンスカが担当したが、後にジョージ・バランシンが独自に振付け、アメリカフランスにおけるバレエのレパートリーとして定着させた。

成立の過程[編集]

パリを中心に活動していた舞踏家イダ・ルビンシュタインは、独自のバレエ・カンパニーを結成し、1928年11月にパリ・オペラ座において旗揚げ公演を行うこととなった。彼女はこの公演のためにストラヴィンスキーやモーリス・ラヴェルにバレエ音楽を委嘱し、その結果、本作品や『ボレロ』が誕生することとなった。

1927年末に委嘱を受けたストラヴィンスキーは、イダの片腕であった美術家アレクサンドル・ブノワから、「チャイコフスキーの音楽にインスピレーションを得たバレエ音楽」を提案された。偶然にも、イダ一座の旗揚げ公演が予定されている1928年11月がチャイコフスキーの没後35年目に当たっていたこともあり、ストラヴィンスキーはこのプランを採用した[1]

バレエの筋書きについても一任されていたストラヴィンスキーは、チャイコフスキーの音楽に合う、ロマン主義的で幻想的なテーマを持つ作品として、アンデルセンの『雪の女王』を選んだ[2]。ストラヴィンスキーは、妖精(雪の女王)が少年に与える宿命の接吻は、ギリシャ神話の音楽の神ミューズがチャイコフスキーに与えた魔法の印を連想するものであり、チャイコフスキーの業績を記念する作品のテーマとしてふさわしいものだと語っている[3]

作曲はアヌシー湖畔のエシャルヴィヌにおいて急ピッチで進められ[4]、出来上がったページは直ちにパリに住むニジンスカの元に送られた。直前のリハーサルで振付を見たストラヴィンスキーは、ニジンスカの才能は認めつつも、イメージに合わない場所があったとしているが[5]、断片的に送られてくる楽譜に基づいて振付を考案すること自体がニジンスカにとっては困難な仕事であった[6]

上演史[編集]

初演は1928年11月27日[7]、パリ・オペラ座において、イダ・ルビンシュタイン一座、ストラヴィンスキー自身の指揮によって行われ大成功をおさめ[6][8]、12月4日に再演された。 引き続き、ブリュッセルのモンネィ劇場、モンテカルロミラノ・スカラ座で上演されたが、それ以後、イダはこの作品をレパートリーから外してしまった[9]

数年後にニジンスカがブエノスアイレスのコロン劇場で『結婚』とともに再演したが[10]、これとは別に、ジョージ・バランシンが同作品をあらたに振り付け、ニューヨーク・シティ・バレエ団の前身であるアメリカ・バレエ団で1936年に上演した[11]。バランシンは1947年にパリ・オペラ座に招かれた際に、バランシン版『妖精の接吻』をパリ国立バレエのレパートリーに加えた[12]

楽曲[編集]

ストラヴィンスキーの楽曲としては、同時期のバレエ・オラトリオ『エディプス王』(1927年)、バレエ音楽『ミューズを率いるアポロ』(1928年)と同じく新古典主義時代の作品である。 後年、作曲者自身によって管弦楽組曲『ディヴェルティメント』が作られた。組曲は、バレエの第4場を除く場面から抜粋され、以下の4つの楽章から成る。

  1. 第1楽章:シンフォニア
  2. 第2楽章:スイス舞曲
  3. 第3楽章:スケルツォ
  4. 第4楽章:パ・ド・ドゥ

『ディヴェルティメント』は1934年に完成され、1949年に改訂版が作られた[13]ジュネーヴにおいてエルネスト・アンセルメの指揮によって初演され[14]、ストラヴィンスキー自身もしばしば好んでこの作品を指揮した[15]

脚注[編集]

  1. ^ イーゴリ・ストラヴィンスキー、塚谷晃弘訳『ストラヴィンスキー自伝』全音楽譜出版社、1981年、201頁
  2. ^ ミシェル・フィリッポ、松本勤・丹治恒次郎訳『ストラヴィンスキー』音楽之友社、1977年、99頁
  3. ^ 『自伝』202頁
  4. ^ 当時ストラヴィンスキーが作曲のために間借りしていた石工の家は悪臭に満ち、夫婦喧嘩や子供の鳴き声が絶えない環境であった(『自伝』200頁)。
  5. ^ 『自伝』204頁
  6. ^ a b M.フィリッポ、前掲書、100頁
  7. ^ 旗揚げ公演の初日は11月22日で、この日は『ボレロ』の初演が行われた。
  8. ^ 初演を観たバレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフは、ストラヴィンスキーの名人芸的なオーケストレーションなどは認めつつも、「長たらしく、全体に哀れっぽい」と辛らつに批評し、ブノワの美術についても酷評している。『火の鳥』以来、バレエ・リュスのためのバレエ音楽を書き続けていたストラヴィンスキーがイダのために楽曲を提供したことに対して嫉妬していたと考えられる(リチャード・バックル、鈴木晶訳『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代』リブロポート、1984年、277頁)。
  9. ^ 『自伝』205頁
  10. ^ 『自伝』205頁
  11. ^ マリ=フランソワーズ・クリストゥ、佐藤俊子訳『バレエの歴史』白水社、1970年、143頁
  12. ^ マリ=フランソワーズ・クリストゥ、前掲書、121頁
  13. ^ 『最新名曲解説全集6 管弦楽曲III』音楽之友社、1980年、414頁(塚谷晃弘執筆)
  14. ^ 『最新名曲解説全集6』では初演年が1931年2月となっている。
  15. ^ 『自伝』205頁