失われた地平線

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失われた地平線』(うしなわれたちへいせん、Lost Horizon)は、ジェームズ・ヒルトンによる長編小説。1933年に発表された。

この小説の舞台として使われた地名シャングリラは、現在では理想郷の代名詞になっている。

概要[編集]

小説は11章からなる本文と、プロローグとエピローグからなる。本文は英国のパスクル駐在領事だったヒュウ・コンウェイが、熱病で一度記憶を失って重慶の慈善病院で作家のラザフォードに発見され、上海から日本経由でサンフランシスコへ向かう一緒の船旅の中で記憶を取り戻し、語った特異な経験をラザフォードが書き留めて原稿の形に纏めたものである。そしてプロローグとエピローグで、ラザフォードから原稿を受け取った話者である精神病学者がその前後の経緯を説明する形になっている。

あらすじ[編集]

1931年に革命騒ぎで混乱したアフガニスタンのパスクルから80人の白人居住者を避難させる任務に就いていた37歳のコンウェイは、最後の3人(若い副領事マリンソン、東方伝道会のミス・プリンクロウ、アメリカ人のバーナード)とともに政府手配の小型機に乗った。だが、その操縦士は本来の操縦士とは別人で、飛行機は目的地ペシャワールではなく、チベット奥地へ飛んだ。そして飛行機は最後に乱暴な着陸をし、操縦士は近くにラマ教の僧院があることを言い残して死んだ。夜が明けて、中国人張の一行が来て、4人をシャングリラの僧院に案内した。

僧院は近代的な施設で、集中冷暖房設備、アメリカ製のバスタブ、膨大な書籍を擁する図書室、グランドピアノ、ハープシコードなどを備えていた。食料はすぐ下の谷間で潤沢に生産され、近くには標高8500mを超えるカラカル山がそびえていた。また豊富な金鉱があって、外部からの必要なモノの購入に不自由しなかった。ここでは人々は平和でストレスのない生活をしていて、年をとるのが非常に遅かった。4人は外部に出る手段がないままに、シャングリラにとどまり、特にコンウェイはこの地を好ましくなっていった。

しばらくしてコンウェイは最高位のラマ僧「大ラマ」と会う機会を与えられ、いろいろと話を聞いた。この僧院は1734年に53歳でこの地に来たカプチン会所属のカトリック神父ペローによって創建され、その後、土地になじんで次第に性格を変えていった。そしてこの大ラマは齢250歳以上という長寿の奇跡を手に入れたペロー神父その人だった。また、大ラマの話で、シャングリラではできる限り一定の数で新しい人を迎えるように務めてきたが、この20年ほど新来者がなかったので、信徒の一人が思いきって谷を出て補充の人員を連れてこようと提案し、大ラマの許しを得て計画を練り、偶然も手伝ってコンウェイら4人をここに連れてくることになったという事情も分かった。

張は今や何一つ隠さず、僧院の決まりや習わしを自由に語ってくれた。また、僧院の何人かと知り合い、中にはショパンの直弟子を称するフランス人もいて、耳慣れた曲以外にもまだ出版されてないショパンの幾つかの作品までピアノで披露、楽譜に書き起こし、コンウェイはそれを御復習いして飽くことを知らなかった。 大ラマとの面会も3回、4回と回を重ね、広範な話題で心置きなく話し合い、心を交わした。こうしてコンウェイは次第に心身一体の満足を疼くほどまでに覚えるようになった。

さらに時間が経ち、外部に出る唯一の機会である、その地に物資を運ぶ運送業者が来ることになった。そのころになると、コンウェイだけでなく、ミス・プリンクロウとバーナードもそれぞれの理由でこの地に居残ることに心を決め、一人マリンソンだけが帰心矢のごとくだった。マリンソンは僧院の満州娘、羅珍と恋仲に陥っていた。張によれば、羅珍は1884年に18歳でここに来たというから、若くは見えるが実際はかなりの高齢である。

そして何回目かの大ラマとの面会の機会に、大ラマはいよいよ自分の死期が近づいたことを告げ、シャングリラの歴史と運命をコンウェイの手に委ねたいと言い残して、寂滅した。一人シャングリラを出るマリンソンは、運送業者の待つ場所までの山道の難所を一人では通れないというので、コンウェイが一緒に行く。そして谷を出たところで運送業者の一団と羅珍に会う。コンウェイの手記はそこで終わっている。

エピローグでは、最後にコンウェイがバンコックから寄越した手紙にこれから北西方面に長い旅に出るとあったのを頼りに、ラザフォードがコンウェイの跡を追い、手記の裏付を探る旅をする。『コンウェイは果たして、シャングリラを尋ねあてるだろうか』。

映画化など[編集]

この小説は2回映画化されている。

ほかに1956年にブロードウェイでミュージカル「Shangri-La」が上演された。