天台寺

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天台寺
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本堂(平成21年11月撮影)
所在地 岩手県二戸市浄法寺町御山久保33-1
位置 北緯40度11分44.110秒
東経141度11分24.110秒
山号 八葉山
宗派 天台宗
本尊 桂泉観世音立像
創建年 (伝)神亀5年(728年
開基 (伝)行基(開山)
正式名 八葉山 天台寺
札所等 奥州観音霊場
文化財 本堂(重要文化財)
仁王門(〃)
木造聖観音立像(〃)
木造十一面観音立像(〃)
  

天台寺(てんだいじ)は、岩手県二戸市浄法寺町にある天台宗寺院。山号は八葉山。作家瀬戸内寂聴が一時期住職をしていた(現・名誉住職[1])ことで知られる。毎月1回の法話の日には、境内に入りきれない程の参拝客で賑わう。

目次

[編集] 札所

奥州観音霊場の第33番札所

[編集] 起源と歴史

奈良時代神亀5年(728年)に行基菩薩が聖武天皇の命を受けて、八葉山と命名し、山中の桂の大木を刻んで本尊聖観音菩薩とし、天皇直筆の額を掲げて開山したものと伝えられている。草創の正確な時期は不明であるが、寺に伝わる仏像の制作年代から、平安時代には寺観が整っていたと思われる。もともとは山道下の桂の大木の根元から清水が湧き出ていたことから「桂水観音」「御山の観音」と呼び親しまれており、霊地として崇められていた桂清水が、のちに観音の霊場として、そして古代において国内最北の仏教文化へ発展したものと考えられている。「天台寺」の名称が初めて資料にあらわれるのは南北朝時代、正平18年(1363年)の銅鰐口で、元中9年(1392年)と伝えられる銅鐘銘には「桂泉」の名も見られる。この頃には勢力を拡大してきた南部氏が天台寺を崇敬・保護するようになり、室町中期には、糠部三十三所観音巡礼の第一番礼所ともなった。江戸期になり、萬治元年(1658年)盛岡藩主南部重直が天台寺を再興、続いて元禄3年(1690年)、南部重信が大修理を行った。このとき建築されたのが現在の本堂(観音堂)である。このとき敷地内には27社もの末社も整備され、寺院として隆盛を誇った。藩からは百石を超える寺領が与えられ、別当(住職)桂寿院を中心に、徳蔵坊・池本坊・実蔵坊・宝蔵坊・中之坊・代仙坊・月山別当三光院などが補佐し、一山の運営・管理にあたっていた。

[編集] 廃仏毀釈事件

明治維新政府が、明治元年位、神道と仏道とを分ける政策(神仏分離令)を布告し、その分離政策を神道関係者と地方官吏とが「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」までに拡大解釈され、当時、天台寺は国内最大級の被害を受けた。明治3年12月、当時の青森県官吏が実地調査に入ると、山内20ヘクタールに末社27社が散在していたにも関わらず、官吏はこれを無視して、天台寺境内周囲約1ヘクタールのみとし、他の末社をことごとく廃止した。山林は官有林とされた。仏像も数多く焼き払われた。本尊などは、当時の檀家の人々によって山林に隠された為破壊は逃れたものの、土中に埋められたり、野ざらしの状態で保管されていた為、保存状態は悪いものが多い。本堂、薬師堂、毘沙門堂、十一面観音堂以外の社殿はほぼ焼き払われ、梵鐘は破壊され、宝物であった大般若経写本までも焼かれたという。

[編集] 霊木伐採事件

昭和28年(1953年)から昭和31年(1956年)にかけて、当時の住職が業者に騙され、業者の手によって境内の杉の巨木1666本が無断で伐採された。当初の理由は、一部檀家が本堂屋根改修経費を捻出するために、30本程度の伐採許可を得たというものだったが、現実の伐採作業はその後も延々と続けられた。また伐採杉は「天然秋田杉」と産地を偽った上で総額約2億円で売り払われてしまい、寺はさらに衰退した。 また、その後、昭和35年(1960年)、伐採関係者により、寺領約20ヘクタールのうち18ヘクタールに地上権が設定され、再度の植林作業を行う自由も奪われた。檀家により地上権契約の解消を要求されるも、正式な手続きで登記された以上契約解消は困難であった。昭和36年(1961年)、檀家側から盛岡地裁に民事訴訟が始まり、昭和42年(1967年)まで38回の弁論を通じて、双方で地上権設定の有効無効を争われた。42年以降は裁判所側の要望により、調停になるものの、調停作業は実質14回もの回数に及んだと言われ、話し合いがつくところまで至らなかった。しかし、1976年(昭和51年)、寺院の荒廃問題がマスコミによってクローズアップされたころと前後して、被告側に譲歩の態度が見られ、3ヘクタールを除いて地上権を解除するということで同意を得られた。[2]

[編集] 寺院復興

寺の復興が始まったのはちょうどこのころで、昭和51年(1976年)4月、今東光の住職就任からである。翌年9月に癌のため急逝するものの、その遺志は受け継がれ、その最も大きな影響があったのは仏弟子、瀬戸内寂聴の住職就任である。瀬戸内は寺の復興に注力し、在職中に天台寺を岩手有数の観光寺院に押し上げた。

  • 昭和51年(1976年)、第71世の住職として今東光(法名 今 春聴)、が就任。
  • 昭和53年(1978年)、第72世の住職として菅野澄覚が就任。
  • 昭和62年(1987年)、第73世の住職として瀬戸内寂聴が就任。
  • 平成17年(2005年)、第74世の住職として菅野澄順が就任。

[編集] 文化財

[編集] 重要文化財

  • 本堂 - 入母屋造、銅板葺きの密教仏堂。万治元年(1658年)、盛岡藩2代藩主南部重直によって造営された。
  • 仁王門 - 本堂と同時期の明暦3年(1657年)に造営。
  • 木造聖観音立像(桂泉観世音)
  • 木造十一面観音立像

[編集] その他史跡

  • (伝)長慶天皇
  • 姥杉 - もっとも太いと言われた杉切株。周囲約15mにも及び、俗に八畳敷きとも呼ばれる。明治36年焼失。平成13年、史実と測量に基づき復元される。
  • 土踏まずの丘 - 三重に土盛りされた小高い丘。桂清水の向かい側にある。経塚とも、墓地とも伝えられる。

[編集] 所在地

岩手県二戸市浄法寺町御山久保33-1

[編集] 交通アクセス

[編集] 近隣情報

[編集] 脚注

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  1. ^瀬戸内寂聴天台寺名誉住職 法話日程」(二戸市公式サイト)
  2. ^ 参考:「帰ってきた天台寺(桜井邦雄著、毎日新聞盛岡支局)」

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク