天京事変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
天京の諸王府・役所の分布図

天京事変(てんけいじへん)は、天京(南京)で1856年に発生した太平天国の指導部の内紛である。楊秀清(東王)、韋昌輝(北王)、秦日綱(燕王)が命を落とし、2万人余りが殺害された事変である。天京事変は太平天国が衰亡へ向かう転換点となった。

背景[編集]

1851年洪秀全(天王)が王制を定めた時、楊秀成を他の四王の上位に置いたが、馮雲山蕭朝貴が戦死した後はさらに権力が楊に集中するようになった。太平天国では軍師が実権を握っており、天王は各王の上にあるとはいえ、実際の権力は東王で正軍師の楊秀清のもとにあった。さらに楊はたびたび託宣(「天父下凡」)を発し、洪も楊の発する信託に従わざるを得なかった。

都を天京に定めた後、楊が韋昌輝(北王)や秦日綱(燕王)、そして石達開(翼王)の妻の父の黄玉崑を杖刑に処するなどの事件があり、楊と他の諸王との対立が深まっていった。

経過[編集]

1856年6月20日、太平天国軍は清軍の築いた江南大営を撃破し、3年にわたる包囲を解いた(第一次江南大営攻略)。情勢が好転したのを見て、楊ははかりごとをめぐらした。楊は「天父下凡」にかこつけて洪を東王府に呼びつけた。天父の信託を演じる楊は洪に「お前と楊はともに我が子であり、楊は功績が大であるのに、何故九千歳に留まっているのか」と問うた。それに対して洪は「楊も自分と同じく万歳と称させます」と答えざるを得なかった。

楊の配下で以前楊に処罰され恨みを抱いていた陳承瑢という者が洪に楊に簒奪の意思ありと上訴した。洪はこの時前線に出ていた韋昌輝(北王)と石達開(翼王)と秦日綱(燕王)に対し楊を除くように密詔を出した。9月1日、韋は3千の兵を率いて天京に戻り、城外で秦と会合を持った。楊の配下の陳承瑢が城門を開いて、軍が一気に東王府を襲い、楊を殺害し、楊の一族・部下2万人を殺害した。

9月26日、石が天京に戻って韋にに対して彼が行った殺害の凄まじさをなじると、韋は翼王府を襲い、石の一族郎党を殺害したが石は脱出に成功した。石は安慶で挙兵し、洪に韋の誅伐を求めた。天京城外の兵のほとんどは石を支持し、11月2日、韋は殺害された。次いで秦日綱と陳承瑢も誅され、天京事変は一段落した。

だが後に洪は楊の罪名を取り消し、楊の命日を「東王昇天節」と定めた。

影響[編集]

天京事変後、太平天国内部の人心は動揺し、軍事形勢は逆転した。韋昌輝の死後、石達開が執政を開始したが、洪は自らの一族を重用して石達開を牽制したため、1857年、石は大軍を率いて離脱し、太平天国にとってさらに情勢は厳しいものとなった。