大阪市立聖賢小学校

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大阪市立聖賢小学校
大阪市立聖賢小学校(2017年11月)
地図北緯34度41分50.4秒 東経135度32分34.9秒 / 北緯34.697333度 東経135.543028度 / 34.697333; 135.543028座標: 北緯34度41分50.4秒 東経135度32分34.9秒 / 北緯34.697333度 東経135.543028度 / 34.697333; 135.543028
過去の名称 東成郡鯰江尋常小学校分教場
東成郡鯰江第二尋常小学校
大阪市鯰江第二尋常小学校
大阪市聖賢国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大阪市
設立年月日 1918年4月1日
創立者 東成郡鯰江村
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
学校コード B127210001801 ウィキデータを編集
所在地 536-0015
大阪市城東区新喜多2丁目4番35号
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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大阪市立聖賢小学校(おおさかしりつ せいけん しょうがっこう)は、大阪府大阪市城東区にある公立小学校

概要[編集]

1918年に鯰江第二尋常小学校として開校し、聖賢国民学校を経て、1947年の学制改革で大阪市立聖賢小学校となった。

学校名は、学校の前を流れていた鯰江川(現在は埋め立てられている)にかかり、学校の通学路になっていた「聖賢橋」からとられた[1]。聖賢橋の橋の名前は、この橋を渡って通学する児童たちが「聖人」のように知徳にすぐれ、道理に通じる「賢人」になるように、聖人賢士が通る橋という願いを込めて名付けられた[1][2]

児童会が中心となり、校区近隣にもあたる京橋駅1945年8月14日に発生した「京橋駅空襲」を題材にした平和学習に取り組んでおり、京橋駅で毎年8月14日に実施される京橋駅空襲被災者慰霊祭では児童代表が参列し、千羽鶴の奉納や作文の朗読などをしている[3][4][注釈 1]

沿革[編集]

当時の東成郡鯰江村に1915年、東成郡鯰江尋常小学校(現在の大阪市立鯰江小学校)の分教場として設置されたことが、学校の始まりとなっている。その後1918年に東成郡鯰江第二尋常小学校として独立校となった。

1934年室戸台風では校舎が倒壊[5]し、児童22人・訓導(教員)1人・保護者1人が倒壊した校舎の下敷きになって死亡し、児童59人と教員2人が重軽傷を負った。同台風による大阪市内小学校での死傷者数では、鶴橋第二尋常小学校(現在の北鶴橋小学校)・鯰江第三尋常小学校(現在の今福小学校)に次ぐ大きな被害となった。

1941年国民学校令により大阪市聖賢国民学校に改称した。大阪市では、「地域名+創立順の番号」の形式だった小学校の校名については、国民学校への改編と同時に番号での校名を廃止し、地名などを取り入れた校名へと改称する方針があわせて出された。そのため、地域の聖賢橋からとった聖賢の校名が採用されている。

1943年2月には旭区(同年4月行政区再編で城東区となる)蒲生町3丁目に分校を設置した。分校は1954年に廃止された。

太平洋戦争の戦局悪化により、大阪市を含む大都市の3年生以上の国民学校児童に対し、1944年以降学童疎開の指示が出された。大阪市での学童疎開は縁故疎開を原則としたものの、縁故のない児童は学校から集団疎開に参加させることにした。疎開先の府県は各行政区ごとに割り当てられ、城東区の国民学校は福井県へ集団疎開することが指定された。

聖賢国民学校では1944年以降、福井県福井市および足羽郡下文珠町(現在は福井市に編入)への疎開を実施している。しかし疎開先は1945年7月19日福井空襲で被災した。児童・教職員に人的被害はなかったが、宿舎を焼失している。

1947年学制改革により、大阪市立聖賢小学校に改称した。

年表[編集]

通学区域[編集]

  • 大阪市城東区 中央1丁目、中央3丁目(一部)、蒲生1丁目-4丁目、今福南1丁目(一部)、新喜多1丁目・2丁目、新喜多東1丁目(一部)、鴫野東3丁目(一部)、今福西1丁目(一部)。
卒業生は大阪市立蒲生中学校に進学する。

交通[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 新型コロナウイルス問題が生じた2020年以降は、児童代表の参列や作文朗読は見合わせ、千羽鶴奉納のみ実施するなど、慰霊祭の規模を縮小して実施している。

出典[編集]

  1. ^ a b 地名の由来 区内北西部”. 大阪市城東区役所 (2011年4月4日). 2022年8月21日閲覧。
  2. ^ 教育目標”. 大阪市立聖賢小学校. 2022年8月21日閲覧。
  3. ^ 大阪市城東区広報紙『ふれあい城東』 2015年8月号(第231号)” (PDF). 大阪市城東区役所 (2017年8月1日). 2022年8月21日閲覧。
  4. ^ 《太平洋戦争・終戦77年》8・14 終戦前日の惨劇 京橋駅空襲慰霊祭「ウクライナを見れば、思い出す」高齢化進み、参列者減少も懸念”. ラジオ関西 (2022年8月14日). 2022年8月21日閲覧。
  5. ^ 高潮の阪神沿道で三百人行方不明『大阪毎日新聞』昭和9年9月22日号外(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p230 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]