大田神社 (京都市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大田神社

拝殿
所在地 京都府京都市北区上賀茂本山340
位置 北緯35度03分35.4秒 東経135度45分30.6秒 / 北緯35.059833度 東経135.758500度 / 35.059833; 135.758500 (大田神社)座標: 北緯35度03分35.4秒 東経135度45分30.6秒 / 北緯35.059833度 東経135.758500度 / 35.059833; 135.758500 (大田神社)
主祭神 天鈿女命
社格 式内社(小)
賀茂別雷神社境外摂社
創建 不詳
本殿の様式 一間社流造檜皮葺
別名 恩多社
例祭 4月10日11月10日[1]
テンプレートを表示
鳥居

大田神社(おおたじんじゃ)は、京都府京都市北区上賀茂本山にある神社式内社で、現在は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社(第三摂社)。古くは「恩多社(おんたしゃ)」とも。

上賀茂神社の東約500メートルの地に鎮座する。

祭神[編集]

祭神は次の1柱[1]

賀茂における最古の神社と伝わることから、長寿の信仰がある[1]

歴史[編集]

創建は不詳。賀茂県主(かものあがたぬし)が当地に移住する以前から先住民によって祀られたといわれるが、明らかではない[1]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では山城国愛宕郡に「太田神社」(写本によっては「大田神社」)と記載され、式内社に列している[2]

境内[編集]

社殿[編集]

本殿

本殿・拝殿とも寛永5年(1628年)の造替[1]。本殿は一間社流造で、屋根は檜皮葺[1]

拝殿は「割拝殿」(わりはいでん:中央が吹き抜けて通れる拝殿)という古い形式で、屋根は本殿と同じく檜皮葺である[1]。社務記では天授3年(1377年)3月に「大田拝殿転倒す」と見えており、それ以前の造営と見られる[1]

蛇の枕[編集]

蛇の枕(中央下部の石)

鳥居前に架かる石橋右側下の水面から、小さな石が顔をのぞかせている。この石は「蛇の枕」または「雨石」と呼ばれ、蛇が枕にしていたと伝える。蛇は雨を降らせる生き物とされ、この蛇がいる枕のもとに行けば、雨乞いができると考えられた。儀礼は、この枕石を農具(鉄器)などで叩いて行われる。こうすることで、枕を叩かれた蛇が怒って雨を降らせるという[3]

摂末社[編集]

  • 白鬚社 - 祭神:猿田彦命(さるたひこのみこと)
  • 百大夫社 - 祭神:船玉神(ふなたまのかみ)
  • 鎮守社 - 祭神:大国主神(おおくにぬしのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)
  • 福徳社 - 祭神:福徳神

上記4社は、いずれも上賀茂神社においても境外末社に位置づけられている[4]

祭事[編集]

  • 御内儀祈願祭(ごないぎきがんさい)(1月10日5月10日9月10日
  • 春祭[5]4月10日
    • 境内に終日氏子が生け花を奉納するとともに、祈祷を行う。その祈祷時には、京都市登録無形民俗文化財の「里神楽」(チャンポン神楽)が奉納される。大田神社が寿命長久の社であることから、高齢者によって囃し舞われ、動きが少ないことが特徴とされる。「チャンポン神楽」の名は、その音色から生まれたものになる。
  • 秋祭[5]11月10日
    • 日中は祈祷・神楽が受け付けられ、夕刻より火焚祭が催される。終日境内では菊花展が開かれる。

大田ノ沢のカキツバタ群落[編集]

大田ノ沢のカキツバタ群落(国の天然記念物

参道の脇の「大田ノ沢」では、約2000平方メートルの敷地にカキツバタ約25,000株が自生しており、「大田ノ沢のカキツバタ群落」と呼ばれる。この大田ノ沢は平安時代からの名所とされ、尾形光琳の『燕子花(かきつばた)図』のモチーフになったとの言い伝えもある[6]。毎年5月上旬から中旬にかけての開花時に、沢一面に濃淡さまざまな紫色の花をつけ、多くの観光客の目を楽しませる[7]

大田ノ沢は古代に深泥池と同様に沼地であったといわれ、かつて京都盆地が湖であった頃の面影を残すものであるとして、カキツバタ群落とともに、昭和14年(1939年)に国の天然記念物に指定された。

文治6年(1190年)には、『千載和歌集』の編者で著名な藤原俊成が、紫一色に染まる様子を一図な恋心に例えて次の歌を詠んでいる[8]

神山(こうやま)や 大田の沢の かきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ
歌の大意:神山(賀茂別雷命の降臨地)の近くにある大田神社のかきつばたに、深くお願いする色事は、かきつばたの色のように一途で美しく可憐なのだろうか。 — 藤原俊成

満池・干池伝説[編集]

雨乞いのとき、大田の池(大田の沢の別名)の水を入れ替えれば雨が降り、長雨のとき、神供寺の池(かつて上賀茂神社の神宮寺にあった池)の水を入れ替えれば雨が止むと伝えられていた。干珠・満珠になぞらえられ、大田の池は満池、神供寺の池は干池とよばれた[9]

かつて、池には八大竜王が祀られ、八池[† 1]のうちの一つに数えられていた[9]

大田の小径[編集]

境内後方には、「大田の小径」と呼ばれる全長約750mの散策路が延びる。この散策路は、平成17年(2005年)に、地域住民で構成する「上賀茂自治連合会」「上賀茂まちづくり委員会」らによって整備されたものである[10]

神社背後の小山に、未舗装ながら整備された山道が続いている。散策路の両脇にはロープが張られているほか、途中の数か所に標識が設けられ、迷うことなく散策できる。北大路魯山人が愛したという山つつじが出迎える山道を進むと、展望箇所が設けられており、好天時には京都タワー伏見桃山城を遠望できる。杉林を抜けて散策路を進むことで、岡本口(東側登り口、上賀茂岡本町地内)に至る[11][12]

「大田の小径」の案内板は、大田神社側は上賀茂神社宮司、岡本口側は京都市北区長による揮毫である。

文化財[編集]

国の天然記念物[編集]

  • 大田ノ沢のカキツバタ群落 - 昭和14年9月7日指定[13]

京都市登録無形民俗文化財[編集]

  • 大田神社の巫女神楽 - 昭和62年5月1日登録[14]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 八大竜王が勧請された貴船龍王の瀧、野中の清水、舟差、神供寺の池(干池)、大田の池(満池)、黒蛇池、新蛇池、御泥池の総称。(京都大学附属図書館所蔵「賀茂名所物語」より)

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 境内説明板
  • 「大田神社」『日本歴史地名大系 27 京都市の地名』平凡社、1979年。ISBN 4582490271 
  • 泉谷康夫 著「太田神社」、式内社研究会編 編『式内社調査報告 第1巻』皇學館大学出版部、1979年。 
  • 建内光儀「摂末社の由緒」『上賀茂神社』学生社、2003年。ISBN 4311407203 

関連項目[編集]