大熊宗清

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大熊 宗清(おおくま むねきよ、1920年1月15日 - 1991年2月11日)は、広島県大竹市元町出身で熊ヶ谷部屋に所属した大相撲力士。本名は和田 宗清(わだ むねきよ)。現役時代の体格は182cm、100kg。最高位は西前頭6枚目(1947年11月場所)。

来歴・人物[編集]

実家は農家で、地元に住んでいた大相撲の世話人に勧められて、16歳の時に熊ヶ谷部屋へ入門。1937年1月場所で、初土俵を踏んだ。

幕下時代は、神風正一輝昇勝彦とともに「幕下三羽烏」と呼ばれた。番付に初めて付いて以来1度も負け越しなしで、1941年1月場所にて十両に昇進した。

この地位でも勝ち越しを続け、1942年5月場所にて、22歳で新入幕を果たした。

激しい突っ張りから、右四つに組んでの相撲は派手な取り口であり、時には櫓投げも見せた。だが、新入幕の場所に於いて怪我をして、その後兵役に就いた時期が長かった。そのためか、三役には上がれず、平幕止まりで終わった。

1950年1月場所限りで廃業し、その後は妻の実家があった愛知県名古屋市に移住して数年ほど飲食店を経営した後、住友軽金属に勤務。

会社勤めの傍らで、名古屋市内にて高校相撲の指導にも尽力し、伊勢ヶ濱部屋OB会の会長も務めた。

1991年2月11日、逝去。71歳没。

エピソード[編集]

  • 廃業後は上述のように、名古屋市で高校相撲の指導者として活躍しており、中京商業高校(現在の中京大学附属中京高校)などの相撲部を指導していた。その指導を受けた者の中には、後の前頭・栃王山などがいた。

主な戦績[編集]

  • 通算成績:121勝105敗35休 勝率.535
  • 幕内成績:55勝69敗32休 勝率.444
  • 現役在位:22場所
  • 幕内在位:12場所

場所別成績[編集]

大熊 宗清
春場所 夏場所 秋場所
1937年
(昭和12年)
(前相撲) (前相撲) x
1938年
(昭和13年)
西序ノ口10枚目
3–1 
西序二段15枚目
6–1 
x
1939年
(昭和14年)
西三段目23枚目
4–3 
東幕下45枚目
6–2 
x
1940年
(昭和15年)
西幕下16枚目
5–3 
西幕下3枚目
5–3 
x
1941年
(昭和16年)
西十両10枚目
9–6 
東十両6枚目
11–4 
x
1942年
(昭和17年)
東十両2枚目
8–7 
東前頭18枚目
2–6–7 
x
1943年
(昭和18年)
西十両6枚目
9–6 
東前頭17枚目
8–7 
x
1944年
(昭和19年)
西前頭10枚目
6–9 
西前頭11枚目

兵役
 
x
1945年
(昭和20年)
x x x
1946年
(昭和21年)
x x x
1947年
(昭和22年)
x 西前頭11枚目
5–5 
西前頭6枚目
3–8 
1948年
(昭和23年)
x 東前頭14枚目
6–5 
西前頭14枚目
6–5 
1949年
(昭和24年)
西前頭12枚目
5–8 
西前頭16枚目
5–10 
東前頭20枚目
9–6 
1950年
(昭和25年)
東前頭12枚目
引退
0–0–15[1]
x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

参考文献[編集]

  • 『山陽力士伝』(著者:世良正明、びんご出版刊)
  • 『全幕内力士個人別大相撲星取大鑑 昭和編第2巻』(著者:小池謙二、医聖社刊)

脚注[編集]

  1. ^ 右肩関節負傷により初日から全休

関連項目[編集]