大河内龍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

大河内 龍おおこうち りゅう1909年5月 - 没年不明)は、日本の俳優である。本名山田 通やまだ とおる)。京都の撮影所の助監督から俳優に転向、トーキー時代にサイレント映画を量産した全勝キネマで剣戟スターとしていきなり大成する[1]。大部屋時代は田川 通たがわ とおる)、一時マキノ 梅太郎(-うめたろう、二代目)を名乗った。

来歴・人物[編集]

1909年(明治42年)5月、静岡県沼津市に生まれる。映画女優の岡島艶子の親戚にあたる[2]

三重県の旧制三重県励精中学校(現在の三重県立津商業高等学校)から三重師範学校(現在の三重大学教育学部)に転学、卒業後は教員への道を進まず、京都のマキノ・プロダクションに入社、助監督部に配属になる。二川文太郎に師事するも、俳優部に異動する。「田川通」名義で端役に出演していたが、19歳となった1928年(昭和4年)5月に、当時「マキノ青年派」五人組で売り出していたマキノ梅太郎が退社したことから、急遽「二代目マキノ梅太郎」を襲名、同五人組の売り出し映画シリーズ『神州天馬侠』の第三篇・第四篇に出演する[3]。しかしその後は大部屋俳優として日々を過ごしていた。

27歳になった1936年(昭和11年)11月、奈良県生駒郡伏見村(現在の奈良市あやめ池北1丁目)に同年5月に設立されたばかりの「全勝キネマ」に俳優として入社、「大河内龍」を名乗る。同社は、松竹に吸収された市川右太衛門プロダクションが閉鎖した「あやめ池撮影所」と、市川右太衛門が主演しない映画をつくった「右太プロ第二部」のB級スターたちを残留させて、右太衛門の実兄・山口天龍が設立した会社だった。大河内は、伊藤大輔原作、志波西果脚本・監督による『菩薩殺生剣』で同年いきなり主役を張る。全勝生え抜きの剣戟スターとなり、同社が製作した170数本のうち、50数本に出演、そのうち40数本に主演した。

日活、松竹、P.C.L.映画製作所新興キネマ、あるいはマキノ・トーキー製作所といったメジャー会社がトーキーに躍起になっている時代に、大河内が在籍した全勝キネマは、極東映画社大都映画とともにサイレント映画を量産した。1940年(昭和15年)、「全勝キネマ」もやはり松竹の傘下に入り、翌1941年(昭和16年)1月に公開した3本をもって製作を終了、合併して松竹資本の「興亜映画」となった。同社の最終作『尾州三勇士』にも大河内は出演し、興亜映画へ移った。

興亜では、同年、おなじく全勝にいた姓丸浩監督のトーキー作品『神戸事件』に出演、つづいて同社と松竹京都撮影所の提携大作、溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』前篇(1941年)・後篇(1942年)に「奥田孫兵衛」役で出演したが、それ以降の消息はわからない。2013年8月現在も存命中ならば、満104歳の高齢である。

おもなフィルモグラフィ[編集]

[編集]

  1. ^ 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「大河内龍」の項(p.102)を参照。同項執筆は園崎昌勝
  2. ^ 『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社、1980年)の「岡島艶子」の項の記述(p.147-149)を参照。同項執筆は滝沢一奥田久司
  3. ^ 立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「管家紅葉 氏談話」の記述を参照。

外部リンク[編集]